その日の帰り道は大通りをつかう事にした。  自分にしては珍しい、ほんの気紛れである。  見飽きたビル街に記憶をふりわける事なく歩いていくと、  ほどなくして人が落ちてきた。  あまり聞く機会のない、ぐしゃりという音。  ビルから降ちて死んだのは明白だった。  アスファルトには朱色が流れていく。  その中で原型を留めるのは長い黒髪と。  細く、白を連想させる脆い手足。  そして貌の亡い、潰れた顔。  その一連の映像は、古びた頁に挟まれ、  書に取り込まれて平面となった押し花を幻想させた。 ――――おそらくは。  首だけを胎児のように曲げたその亡骸が、  私には折れた百合に似て見えたからだろう。                            /俯瞰風景 ―――――――――――――――――――――――――――――――――                  /1  八月になったばかりの日の夜、幹也が事前に連絡もいれずにやってきた。 「こんばんは。相変わらず気怠そうだね、式」  突然の来訪者は玄関口に立って、笑顔でつまらない挨拶をした。 「実はね、ここに来る前に事故に出くわしたんだ。  ビルの屋上から女の子の飛び下り自殺」  人の家にやってくるなり、幹也は自然な口調でそんな事をきり出した。 「最近多いって聞いてたけど、実物に遭遇するとは思わなかったな。はいこれ、冷蔵庫」  玄関でブーツの紐をほどきながら、手に持ったコンビニのビニール袋を投げてよこす。中にはハーゲンダッツのストロベリーが二つ。  溶ける前に冷蔵庫に封入しろ、という事らしい。  私が緩慢な動作でその中身を確かめている隙に、幹也は靴を脱ぎ終えて敷居にあがっ ていた。  私の家はマンションの一室だ。玄関から1メートルもない廊下をぬければ、すぐに寝室兼居間という部屋に辿り着く。  さっさと部屋へと歩いていく幹也の背中を睨みながら、私も自室へと移動した。 「式。君、今日も学校をさぼっただろう。成績なんてどうでもいいけど、出席日数だけは確保しとかないと進級できないぞ。一緒に大学に行くって約束、忘れたのか?」 「学校の事でオレに指図する権利、おまえにあるか? そもそもそんな約束は覚えてないし、おまえは大学辞めちまったじゃないか」  そう言って睨むと、幹也は言葉につまってすこしだけ俯いた。 「権利なんて言われると、そんな物は、なんにだってないんだけどね」  難しい口振りをして、幹也は腰をおろした。こいつは自分が不利になると地が出る傾向にあるらしい。・・・最近、思い出した事だ。  幹也は部屋の真ん中に座った。  私は幹也の背後にあるベッドに腰をおろすと、そのまま体を横にした。幹也は私に背中を向けたままだ。  その、男にしては小柄な背中を、私はボウと観察する。  黒桐幹也(コクトウミキヤ)という名前をしたこの青年は、私とは中学時代からの友人であるらしい。  数々の流行ものが次々と現れては疾走し、あげく暴走したまま消滅するという現代の学生達の中において、退屈なまでに"学生"という形を維持し続けた貴重品だ。  髪も染めないし、のばさない。肌も焼かなければ飾り物もしない。ケータイも持たなければ女遊びもしない。  背は170に届かないか程度で、顔立ちはいい 部類に入ると思う。  可愛い系で、黒縁の眼鏡がその雰囲気を一層強めていた。  今は高校を卒業して平凡な服装をしているが、着飾って街を歩けば通行人の何人かは目に止めるぐらい、実は美男子だと思う。 「聞いてる? お母さんにも会ったよ。一度は両儀の屋敷に顔ぐらいださないと。退院してからふた月、連絡も入れてないそうじゃないか」 「知らないよ。実感が湧かないんだからしょうがないだろ。  会ったってよけいに距離が開くだけだ。おまえとだって違和感が付きまとうっていうのに、あんな他人と会話が続くもんか」 「そんなんじゃいつまでたっても解決しないだろ。式のほうから心を開かなくちゃ、一生このままなんだぞ。実の親子が近くに住んでいるのに顔も会わせないなんて、そんなの駄目だ」  責めるような言葉に、私は眉をしかめる。  駄目だって、何が駄目だというのだろう。私と両親の間にはなんら違法な物はない。  たんに子供が交通事故にあって、以前の記憶を損失してしまっただけなのだ。戸籍上も血縁上も親子だと認められているんだから、今のままでも何ら問題はない筈である。  …幹也はいつも人の心の在り方を心配する。  そんなの、どうでもいい事だっていうのに。                  ◇  両儀式(リョウギ シキ)は中学時代からの友人だ。  僕らの中学は私立で、有名な進学校だった。その合格発表の時、両儀式という名前があんまりに珍しいので覚えていたら、クラスが一緒になってしまった。以来、自分は式の数少ない友人の一人となった。  うちの学校は私服オッケーっていうワケのワカラナイ進学校だったので、みなそれぞれの服装で自分を表現していたと思う。そんな中、校内での式の姿はとても目立った。  なにしろ、いつも着物なのだ。  質素な着流しの立ち姿は式の撫で肩によく似合っていて、歩いているだけでそこが武家屋敷の一室のように思えたほどだ。  生徒の中にはイギリスかぶれのロッカースタイルも多少はいたが、式の個性の前にはそんなのはSTYLEの初回版よ り希少価値がなかった。  式がどんな人間かなんていうのは、この話だけでもう表していると思う。  式本人の容姿は、これまた出来すぎだった。  髪は黒絹のように綺麗で、それを面倒くさそうにハサミで切ってほったらかしにする。それがちょうど耳を隠すぐらいのショートカットになっていて、これまたヘンに似合っているもんだから式の性別を間違える男子生徒も多かったほどだ。  男なら女性に、女なら男性と見間違うぐらいの美人で、綺麗というより凛凛しい、という相貌である。  けれどそんな個々の個性よりも、自分が何より魅了されたのは式の目だった。目付きは鋭いのに静謐としたその瞳と、細い眉。  何か、僕らには見えない物を見据えているというその在り方が、自分にとっての両儀式という人物のすべてだった。  そう。  式が、あんな事になるまでは。                  ◇ 「飛び降り自殺。アレは事故になるのか」  私の意味のない呟きに、黙り込んでいた幹也はサッと正気を取り戻した。そのまま今の問いを真剣に考えだす。 「そりゃあ事故には違いないけど…そうだね、たしかにあれって何なのかな。  自殺である以上、その人は死んでしまっている。けど自分の意志である以上、責任はやっぱり自身だけのものだ。  だだ、高い所から落ちるっていうのは事故なんだから―――」 「他殺でもなく事故死でもない。曖昧だね、そういうのって。自殺なら誰にも迷惑をかけない方法を選べばいいのに」  この言い分が気になったのか、ちらり、と幹也は背後の私へと視線を投げた。 「死んだ人を悪くいうのはよくないよ」  窘める風でもない、素っ気のない口調。  そんな幹也の台詞は聞く前からうんざりするほど予測出来てしまっていた。 「コクトー。オレ、おまえの一般論は嫌いだ」  自然、反論はきつくなる。けれど幹也は気を悪くした風もない。 「あぁ。懐かしいね、その呼び方」 「そうか?」  うん、と幹也は鸚鵡返しをする。  彼の呼び方は幹也とコクトーというふた通りがあり、私はコクトーという響きはあまり好きではなかった。  …その理由はよくかわらない。  そんな会話の空白に生まれた疑問の途中、幹也は思い出したように手を叩いた。 「そういえばさ。珍しいついで言うと、うちの鮮花(イモウト)が見たって」  幹也の言い分が解らず、眉をしかめる。 「だから例のアレですよ。巫条ビルの女の子。空、飛んでるってヤツ。式も一度見かけたって言っただろう」  ああ、思い出した。  たしか三週間ほど前から、オフィス街の一角にある高級マンションの上空に人らしき姿が見え始めたのだ。私だけでなく鮮花にも見えたという事は、どうもアレは本物らしい。  交通事故で二年間昏睡状態にあった後、私はそういった"本来ありえないモノ"が見えるようになっていたのだ。  トウコあたりに言わせると見えるではなく視える、つまり脳と目の認識レベルが向上しただけらしいのだが、そのカラクリになど私は興味がない。 「巫条ビルのヤツなら一度じゃなく数回だぜ。もっとも最近はあのあたりには出歩いていないから、今も視えるかどうかはわからないぞ」 「ふうん。あそこはよく通るけど、僕は見かけた事はないな」 「おまえは眼鏡をかけてるから駄目だ」  関係ないと思う、と幹也はすねた。  その仕草は温かで、邪気がない。だからこいつにはそういったモノは見えにくいのだ。  それにしても飛ぶだの落ちるだの、つまらない現象が続く。そんな事になんの意味があるのか解らなくて、私は疑問を口にしていた。 「幹也。人が空を飛ぶ理由ってわかるか?」  私の唐突な謎かけにさあ、と首をすくめて、当たり前の事をしれっと幹也は言った。 「飛ぶワケも落ちるワケもわからないよ。だって一度も、僕はやった事がないからね」                  /2  八月もおわりにさしかかった夜、散歩をする事にした。  夏の終りにしては、外の夜気は肌寒い。  終電はとっくに終わっていて、街は静まり返っていた。静かで、寒くて、廃れきった、何かの死街のようでもある。  人通りも温かみもないその光景は、一枚の写真みたいに人工的で、不治の病を連想させた。      ―――――病い、病気、病的。  何もかも、明かりのない家も明かりのあるコンビニも、気を許せば咳き込んで崩れ落ちるようなかんじ。  そんな中、月光は青々と夜を浮き彫りにする。  いま全てが麻酔されたこの世界、月だけが生きているようで―――ひどく、目が痛む。  だから、病的とはそういう事だ。  家を出る時、浅葱色の着物の上に黒い皮製のジャンパーを羽織った。  着物の袖が上着に巻き込まれて、体が蒸す。  それでも暑くはない。―――いや。  私にとっては、もとから寒くもなかったのだ。  そんな真夜中でも歩けば人と出会った。  俯いて、ただ早足で進んでいく青年。  自販機の前でぼんやりとする少年。  コンビニの明かりに集う、幾多もの若者。  そこに何かしらかの意味があるのか探ってみたが、所詮部外者である私にはちっとも掴めなかった。  そもそも、自分自身がこうやって夜に出歩く事からして意味はないのだ。  私は、かつての私が趣向していたこの行為を繰り返しているにすぎない。 ―――二年前。  両儀式という私は交通事故にあって、そのまま病院に運ばれた。体自体は大きな傷は負っていなかったが、ダメージは頭のほうに集中してしまったという。  以来、昏睡状態が続いた。  体がほぼ無傷だったのが災いしたのか、病院側を私を生かし続け、意識のない私の肉体はこれまた必死に生き続けた。そうしてつい二ヵ月前、両儀式は回復した。  医師達は死者が蘇生するぐらいのショックをうけたそうで、なるほど、つまり私はそれぐらい回復が見込まれていなかったという事だろう。  そして私自身も、それほど大げさではないけれど、ある衝撃を受けていた。  自分の今までの記憶というヤツが、どうもおかしいのだ。  簡単に言うと、自分の記憶が信用できない。 これは過去の事柄が思い出せない、という記憶障害…俗に記憶喪失と呼ばれるものとは違う。  トウコ曰く、記憶とは脳が行なう銘記、保存、再生、再認の四大のシステムだという。 『銘記』は見た印象を情報として脳に書き込む事。 『保存』はそれをとっておく事。 『再生』は保存した情報を呼び出す、つまり思い出す事。 『再認』は再生した情報が以前のものと同一かどうかを確認する事。  この四つのプロセスの一つでも出来なければ記憶障害となる。もちろん、それぞれの故障箇所によって記憶障害のケースも変わってくる。  けれど私の場合、このいずれも支障なく働いている。以前の記憶に実感が持たないが、自分の記憶が以前の私が受けた印象とまったく同じだ、という『再認』も働いている。  だというのに、私にはかつての自分に自信がもてないでいた。  私が、私であるという実感がない。  両儀式というかつての記憶を思い出しても、それが他人事にしか思えない。私は間違いなく両儀式だというのに。  二年間という空白は、両儀式を無にしてしまっていた。  世間の評価ではなく、私の中身を無にしていたのだ。私の記憶と、私が持ちえていたであろう性格。その繋がりが絶望的なぐらいに断たれてしまっている。  そうなってしまうと、記憶はただの映像にすぎなかった。  ただその映像のおかげで、私は以前の私のように外見は装える。両親にもかつての知り合いにも、彼らの知っている両儀式として触れ合える。今の私はおかまいなしで。  正直、それは我慢できない息苦しさで私を悩ませる。 ―――――まるで擬態だ。      私はちっとも生きていない。  生まれたばかりの赤子と同じ。何も知らないし、何も得ていない。けれど十八年という記憶が私を一人の完成した人間たらしめている。  本来、さまざまな経験によって得るはずの感情は、すでに記憶として持っている。けれど私はそれを実経験していない。だが、実経験しようにもすでにそれは識っているのだ。そこには感動も、生きている実感もない。  …タネ明かしされた手品が、もう驚けないのと同じように。  そうして私は生きている実感も持てないままで、かつての私らしい行動を繰り返す。  理由は単純だ。  そうすれば、私はかつての自分に戻れるかもしれないから。  こうすれば、この夜歩きの意味もわかるかもしれないから。  …あぁ、そうか。  だとすれば、私はかつての私に恋しているといえなくもないワケだ。                (3/→)  ずいぶんと歩いた気がして顔をあげると、そこはオフィス街だった。  行儀よく同じ高さのビルが道にそって立ち並んでいる。ビルの表面は一面の窓ガラスで、今はただ月明かりだけを反射していた。  暗がりの中、ビルという大きな鏡が互いの姿を不明瞭に映し出している―――。  今日の夜は静かだ。  大通りにならぶビルの群れは、怪人の徘徊する影絵の世界めいている。  その奥にひときわ高い影がある。二十階建ての梯子のような建物は、月まで届けとばかりに伸びる細長い塔に見えた。  塔の名前は巫条という。  マンションである巫条ビルに明かりはない。住人はみな眠りについているのだろう。時刻は、じき午前二時をまわろうとしているのだ。  その時―――つまらない影が網膜に映りこんだ。  人型らしきシルエットが視界に浮かぶ。比喩ではなく、本当にその少女は浮いていた。  風は亡い。  夜気の冷たさは夏にしては異常だ。               シン  うなじの骨が、寒さによって針ときしむ。  もちろん、そんなのは私だけの錯覚。 「なんだ、今日もいるじゃないか」  不快だが、見えるものは仕方がない。  そうして、件の少女は月にもたれるように飛行していた。