俯瞰風景/ …イメージはとんぼ。  忙しく飛んでいる。  一羽の蝶がついてきたけど、自分の速度はさがりはしない。  蝶はいつしかついてこれなくなって、視界から消える頃に、力なく落ちていった。  弧を描いて落ちていく。鎌首をもたげた蛇のような落下は、けれど折れた百合に似ていた。  その姿が、ひどく哀しい。  一緒に行く事はできなくても、せめてあと少しは傍にいてあげるべきだったろう。  でもそれは不可能だ。だって、地に足がついてない自分は、立ち止まる事さえ自由ではなかったのだから。                  1  誰かの話声がするので、仕方なく起きる事にした。  …まぶたがかなり重い。二時間は寝たりない証拠だ、これは。  それでも活動しようとする自分はいじましいな、とちょっと自己陶酔してみると意識は眠気に勝ってしまった。 ―――ほんと、我ながら単純で困る。  たしか昨夜は徹夜で図面を完成させて、そのまま橙子さんの部屋で眠ったはずだ。  がば、と音をたてて体をソファーから起こすと、やっぱりここは事務所だった。まだ正午に差しかかっていない夏の陽射しの中で、式と橙子さんがなにやら話し込んでいる。  式は壁に立ったままもたれかかっていて、橙子さんは足を組んでパイプ椅子に座っていた。 「おはよう黒桐」  じろりとした橙子さんの一瞥は、まあ、いつもの事だ。…眼鏡が外れている所をみる と、式とはあっち関係の話をしていたのだろう。  いつもの事、といえば彼女の姿もいつもとそう変わらない。  髪は短く、首をあらわにした橙子さんはいかにもどこかの社長秘書、といった風だ。もっとも眼鏡をとった時の橙子さんの目付きの悪さは筆舌にしがたいので、一生そういった職業にはなれないだろう。  黒色の細いズボンに、まるで新品みたいにパリッとさせた白いワイシャツが似合っている。 「すいません、眠ってしまったみたいです」  とりあえず言い訳をしてみた。 「つまらん事を説明するな。見ればわかる」  きっぱりと言い捨てると、煙草を口にあてる。 「起きたなら茶を煎れてくれ。いいリハビリになる」  社会復帰(リハビリ)って、やっぱり更生運動(リハビリテーション)の事なんだろうか。  自分がどうしてそんな事を言われなくちゃいけないのかは謎だけど、橙子さんはいつもこういう風なので是非を問うのはやめておく事にした。 「式は何か飲む?」 「オレはいい。すぐ寝るから」  そう言う式は、たしかに寝不足のようだった。  昨日の夜、僕が帰ってから夜の散歩でもしたのだろうか。                  2  事務所兼橙子さんの私室である部屋のとなりには、台所らしき部屋がある。  もとは何かの実験室だったのか、水道の蛇口は学校の水飲み場のように横に三つも並んでいる。うち二つは針金で縛られて使用禁止になっていた。理由は不明。ただ、これを見ていれば少しだけ減量中のボクサーになった気分が味わえる。気持ちが殺伐として いくので、あまり有り難みはない。  さて。二人分のコーヒーを作るため、コーヒーメイカーを作動させる。その一連の動作には無駄はない。コーヒー煎れならもう一人前になっているのだ。…もっとも、お茶組みをするためにここに働きにきているワケじゃない。  自分こと、黒桐幹也がここに就職してじき半年がたつ。  いや、就職というのはかなりおかしい。なにしろここは会社として成立していないのだ。  それを覚悟で押し掛けたのは、一重にあの人の作品に惚れ込んでしまったからだろう。  式が一人で十七才のまま時間を止めてしまった後、僕は目的もなく高校を卒業して大学生になった。  その大学に入るのは、式との約束だった。  式が回復の見込みのない病状にあったとしても、その約束だけは守りたかったのだ。  けれどその後は何もなかった。大学生になった僕は、ただカレンダーの日付だけを追っていた。  そうしてぼんやりと過ごしていた時、友人の誘いで何かの催し物に足を運び、一体の人形を見つけた。  それはひどく―――そう、道徳法の限界ぎりぎりにまで迫ったほど、ひどく精工な人形だった。人間をそのまま停止させたようなそれは、同時に、決して動かない人型である事を明確に提示していたと思う。  ただ、美しすぎて。  今にも息を吹き返しそうな人間。けれど初めから命などない人形。生命しか持ちえない、しかし人間では届かないその場所―――。  その二律背反に、僕は虜になった。  おそらく、その在り方全てがあの時の式そのものだったから。  人形の出展は不明だった。  パンフレットにはその存在すら載っていなかった。  必死になって調べてみると、それは有志による出展で製作者は業界では曰くつきの人物だった。  蒼崎橙子という名のその製作者は、いうなれば世捨て人だった。人形作りが一応の本職らいのだが、建物の設計などもやっているらしい。  とにかく物を作る事ならなんでもやるのだが、仕事を引き受ける事はまったくない。いつも自分から"こんな物を作ります"と相手に売り込みにいき、報酬を前払いでもらって制作にとりかかるというのだ。  よっぽどの道楽者か、あるいは変人か。  興味はいっそう深まっていき、よせばいいのに僕はその変人(そう、今ならはっきりとそう断言できるのにっ!)の住みかを調べあげてしまった。  それは都心から離れた、住宅地とも工場地帯ともいえない、なんとも半端な住所だった。  橙子氏の住みかは、およそ家ではなかった。  廃墟だった。  それも半端な廃墟ではない。数年前の景気がいい時に工事が始まり、景気が悪くなったので途中で放置されたという本当の廃ビル。とりあえず建物としての形は出来ているが内装はまったくなく、壁も床も素材が剥出し。  完成時には六階建てになったのだろうが、四階から上はない。…今じゃビルは最上階から作ったほうが効率がいいんだけど、当時はまだ昔ながらの方法だったのだろう。工事が途中で放棄された為、作りかけの五階のフロアが屋上らしきモノになってしまっていた。  ビルの敷地は高いコンクリの塀で囲まれているものの、侵入するのは容易である。ご近所の子供達が秘密基地にしなかったのは奇跡だろう。  とにかく、そんな買い手のないまま放置されていたビルを、蒼崎橙子は買い取ったらしい。  今こうしてコーヒーをいれている台所らしき部屋は、そのビルの四階に位置する。二階、三階は橙子さんの仕事場なので、たいてい僕らはこの四階でコミニケーションをとる事になっていた。…話を戻そう。  その後、僕は橙子さんと知り合い、入ったばかりの大学を辞めてここで働く事になった。  信じられない事に、きちんと給料はでている。  橙子さんに言わせると、人間には二系統二属性があり、創る者と探る者、使う者と壊す者とに別れるんだそうだ。  幹也くんには創る者としての才能はないわねー、なんてはっきり言ったのに、橙子さんはなぜか自分を雇ってくれた。なんでも探る者としては才能があるとかなんとか。 「遅いよ黒桐」  隣の部屋からそんな催促が届く。  見れば、とっくにコーヒーメイカーには黒黒とした液体が満たされていた。                  3 「昨日で八人目らしいね。世間もそろそろ関連性に気付いてもよかろうに」  灰になった煙草をもみ消しながら、唐突に橙子さんは切り出した。  ここ最近に連続している、女子高生の飛び降り自殺の事だろう。  今年の夏は断水の憂き目もなく、橙子さん好みの悲惨な話題といったらそれしかないからである。 「あれ、六人なんじゃないですか」 「君が惚けている間に増えたんだ。六月から始まって、月に平均三人か。あと三日以内に追加一人がでるかな」  不謹慎な事を橙子さんは口にした。ちら、とカレンダーに目をやると、八月はあと三日しか残っていない。……あと、三日……?  なにか、そこにひっかかるものがあったが、疑問はすぐに意識の底に落ちていった。 「でも関連性はないって話ですよ。自殺してしまった娘たちはみんな学校も違うし、友人関係もなかったって。警察が情報を隠蔽してるってだけかもしれませんけど」 「ひねくれた事をいう。黒桐らしくないな」  揶揄するように、橙子さんは口元をつりあげた。  …眼鏡をはずしていると、この人は底意地がどこまでも悪くなる。 「だって遺書が公開されてないでしょう。六人、いや八人ですか。それだけの数なら、一人ぐらい遺言らしい物を公開してもいいだろうに、それをひた隠しにしてる。これって隠蔽でしょ?」 「だから、それが関連性だ。いや共通点のが正しいか。  八人中、大半が死亡者自らが飛び降りている現場を複数の人間が発見しているし、彼女達の私生活にはなんら問題も浮かび上がらない。薬をやっていたとか、妖しい宗教にかぶれていた事もないわけだ。  極めて個人的な、自分そのものに不安を抱いての自殺であるのは疑いようがない。だから警察もその点を重要視していないんだろうね」 「遺書は公開されないんじゃなくて、初めから用意されてないって事ですか?」  半信半疑でそう口にしてみると、橙子さんは断定はできないが、と頷いた。  けど、そんな事があるんだろうか。  そこには何か矛盾がある。コーヒーカップを手にとって、その苦さを味わいながら思考を走らせてみた。  遺書がないのはなぜだろう。遺書を書くのなら、人は死なない。  遺書とは、極論として未練だ。死をよしとしない人間がどうしようもなく自殺する時、その理由として残すもの、それが遺書のはずだ。  遺書のない自殺。  遺書をかく必要がない。それはもうこの世になんの意見もせず、潔く消えるという事。それこそが完全な自殺だ。完全な自殺とは遺書など初めから存在せず、その死さえ明らかにはされない物を言うと思う。  しかし、飛び降りは完全な自殺ではない。人目につく死は、それこそが遺書めいてしまう。  ならばどうなる?  それとは別の利用だとすると・・・何者かが彼女達の遺書を持ち去ったか。いや、それでは自殺ではなくなってしまう。  ではなにか。考えられる理由はたった一つだ。  文字通り、アレは事故だったのではないか。  彼女達ははじめから死ぬつもりなどなかったのだ。それなら遺書を書く必要はない。ちょっとそこまで買物にいった時に交通事故に襲われたようなものだとしたら。  昨夜、式がぽつりとこぼしたように。  …でも、ちょっとそこまで買物に行くのにビルの屋上から飛び降りる理由が、僕には考えつかなかった。 「飛び降りは八人で終わりだぜ。この後にはしばらく続かない」  暴走しかかっていた僕の思考をさえぎるように、式が話に入ってきた。  さっきまでは興味ないって素振りだったのに。 「終りって、わかるの?」  つい聞いてしまう。  式はああ、と遠くをみながら頷いた。 「見てきたから。飛んでいるのは八人だった」  形のいい小さな唇が、そう囁いた。 「ほう、あのビルにそれだけいたか。君には初めから人数はわかっていたんだな、式」 「うん。あいつは始末したけど、あの女たちはしばらく残っていると思う。気にくわないけどね。 ―――なあトウコ。なまじ飛べちまうと、人間っていうのはあんな末路をむかえちまうものなのか」 「どうだろうな。個人差があるからはっきりとは言えないが、過去、人間だけの力で飛行を試み、成功した者はいない。飛行という言葉と墜落という言葉は連結だ。しかし空に憑かれたものほどその事実を忘れてしまう。  結果、死んだ後も雲の上を目指して飛行するはめになる。地上に落ちる事もなく、空に墜ちていくように」  橙子さんの答えに、式は納得いかなげに眉をしかめた。  …怒っている。けれど、なにに? 「すみません、話がみえないんですけど」 「うん? いや、例の巫条ビルの幽霊の話さ。もっともアレが実体だったのかただのイメージだったのかは、実物を見てみないとなんともな。暇があれば見にいこうとは考えていたが、式が殺してしまったのでは確かめようがない」  …ああ、やっぱりそっちの話か。  眼鏡をはずした橙子さんと式という組合せはたいてい、こういうオカルトティックな話をしているのだ。 「式が巫条ビルの屋上に浮いている少女を見た、という話は聞いているだろう。  その話には続きがあってな、少女のまわりには人型らしきモノがせわしなく飛行していたそうだ。巫条ビルから離れない、という事からあそこが網になっていたんじゃない かと話をしていてね」  話の奇抜さと難解さはますますその色を濃くしていって困る。  そんなこちらの顔色がわかるのか、橙子さんは簡潔にまとめてくれた。 「つまり、巫条ビルには一人の浮いている人間がいて、そのまわりには飛び降り自殺になってしまった少女達の姿があった。この少女達は幽霊めいたものだろうね。話としてはそれだけの、簡単な構造だ」  ははあ、といちおう頷いてみる。  怪談の肝はわかったけれど、結局、今回も自分は終わった後で関わっているだけのようだ。  式のさっきの台詞から、その幽霊とやらは式本人にやられてしまったのだろう。  橙子さんと式を知り合わせてから二ヵ月。僕はこの手の話には、解決編だけを聞くような立場になりつつあった。  二人と違っていたってノーマルな自分としては、その手の話には関わりたくない。けれど無視されるのもなんだか所在ないものなので、このどっちつかずの立場は丁度いいと思う。  世間さまでは、こういうのを不幸中の幸いというのだろうが。                 4 「なんか、そう聞くと三文小説みたいですね」  だろう、と橙子さんは同意した。  式だけがますます視線に怒気をはらませて、流し目でこちらを睨んでいる。  なにか式を怒らせるような事をしたのだろうか、僕は。 「あれ? でも、式が最初に幽霊を見たのって七月のあたまだったよね。じゃあその頃の巫条ビルにいたのは四人だったんだ」  確認のために当たり前の事を言ってみると、式は気難しい顔つきのまま首をふった。 「八人。初めから飛んでいるのは八つあった。言っただろ、八人以上の飛び降りはないんだって。連中の場合、順序が逆なんだから」 「それって初めから八人の幽霊が視えたってコト? ほら、いつかの未来視の子みたいに」 「まさか。オレは正常。あそこの空気がおかしいだけだ。そうだな、湯水と氷水がぴったりと向き合っている感じで変なんだ。だから…」  煮え切らない式の言葉の続きを、橙子さんが間髪いれずに受け継ぐ。 「だから、あそこは時間がかしいでいるんだ。  時の経過とは一種類ではない。朽ちていくまでの距離は、それこそ全てに不均等だ。ならば人間という一固体と、その一固体が持ちえた記憶にも、朽ちていく時間の差というものがあるのは道理だろう。  人が死ねば、その者の記録は消えるのか?   消えないだろう? 観測者(オボエテイルモノ)が残っているかぎり、あらゆる物は無へと突然に消失するわけではない。無へと薄れていくんだ。  人の記憶、いや記録か。その観測者がそれを取り巻く環境であった場合、彼女達のような特異な人種は死後も幻像として街を闊歩する。  幽霊とよばれる現象の一部がこれだ。  この幻像を視てしまうのは、その記録の一部分を共有する者…死した人物の友人や肉親になる。式は例外だがね。  そういった『記録だけの時間の経過』があるのだが、あのビルの屋上はそれが遅い。彼女達の生前の記録が、まだ本来の彼女達の時間に追いついていない。  結果、思い出だけがまだ生きている。  あの場所に幻像として映っているのは、きわめて遅く送られている少女達の行動と事実(ゲンジツ)なんだろうさ」  橙子さんはそこで何本目かの煙草に火をつけた。  ようするに何かが無くなっても、その何かの事を自分が覚えているかぎり、それが無くなったわけではなくて、覚えているという事は生きているという事なので、生きている物ならば目に見えてしまう、という事だろうか。  それではまるで幻覚だ。―――いや、橙子さん本人が最後に"幻像"とまとめたのは、それがやっぱり本来ありえない物として定義しているからだろう。 「理屈はいいよ、そんなのに害はないんだ。問題はあいつだろ。  手応えはあったけど、本体が有るのならまた繰り返しになっちまう。幹也のお守りはもう後免だからな、オレは」 「同感だ。巫条霧絵の後始末は私がするよ。君は黒桐を送ってくれればいい。黒桐の退勤時間まで五時間はある。眠るならそこの床でも使えばいい」  橙子さんの指差した床は、ここ半年間一度も掃除をした事がなくて、紙クズのつまった焼却炉の中みたいになっている場所だった。  式は当然、それを無視する。 「それで。結局、あいつはなんだったんだ」  式がじろりと橙子さんを睨む。  煙草をくわえた魔法使いは、ふむ、と思案したかと思うと足音もなく窓際へと歩み寄った。  そこから外を眺める。  この部屋には電灯がない。室内は外の日差しだけを受け入れて、昼間なのか夕方なのか不明瞭だ。  それとは対照的に、窓の外の景色ははっきりと昼間だった。その、熱気さえ立ち上らせる太陽の照り返しは真っ白にさえ見れるほどに。  夏の正午の街なみを、橙子さんはしばし無言で見つめていた。 「以前は、彼女も飛行の部類だったのだろう」  煙草の煙が、白い日差しに同化していく。  窓の外の景色を見下す背中。  白にかすむ蜃気楼のよう。 「黒桐。高いところから見る風景は何を連想させると思う?」  いきなりの質問に、ぼんやりとした意識が引き戻された。  高い所なんて、子供のころ東京タワーに昇ったきりだ。その時なにを思ったかなんておぼえてもいない。自分の家を見付けようと躍起になったけれど発見できなかった、ぐらいだ。 「小さい、ですか?」 「それは穿ちすぎだね、黒桐」  …にべもない反論が返ってきた。まあ半信半疑の発言だったからしかたがないだろう。気を取り直して違うものを連想してみる。 「…そうですね。連想するものはあまりないけど、綺麗だとは思いますよ。高いところからの風景には圧倒されますから」  さっきより本心からの答えだったからだろう、橙子さんはうん、と小さく頷いた。  そうして、やっぱり視線は窓の外に向けたまま話しはじめる。 「高所から見下ろす景色は壮観だ。なんでもない景色でさえ素晴らしい物と感じる。だが、自分の住んでいる世界を一望した時に感じるのはそんな衝動じゃない。  俯瞰の視界が得る衝動はただ一つ―――」  衝動、と口にして、橙子さんは少しの間だけ言葉をきった。  衝動は理性や知性からくる感情じゃない。  衝動とは、感想のように自分の内側からやってくるものではなく、外側から襲いかかってくるものなのだ。たとえ本人が、それを拒んでいようとも。  不意に襲いかかってくる暴力のような認識。それを僕らは衝動と呼ぶ。  では、俯瞰の視界がもたらす暴力とはなんなのか――― 「それは遠い、だよ。  広すぎる視界は、転じて世界との隔たりがはっきりと出来てしまうものなんだ。   人間はせいぜい自分の身の回りにある物でしか安心できない。どんなに精工な地図があって、自分がどこそこの此処にいる、という事実を知っていても、そんなのはただの知識でしかありえないだろう?  私達にとって、世界とは肌で感じ取れる程度の周囲でしかないんだ。脳が認めている地球の、国の、街のつなぎ目なんて我々は実感できない。そのつなぎ目の場所に行かなくてはね。そして実際、その認識の仕方に間違いはない。  だがあまりに広すぎる視界をもってしまうと、それにズレが生じてしまう。自分がいま肌で感じてている10メートル四方の空間と、自分が見下ろしている10キロメートル四方の空間。そのどちらも自分の住んでいる世界であるのに、よりリアルとして感じ取ってしまうのは前者だ。  ほら、ここにもう矛盾が生まれているだろう? 自分が体感できる狭い世界より、自分が見ている広い世界のほうを"住んでいる世界"と認識するのが本来は正しい。けれど、どうしてもその小さな世界に自分がいたのだという実感が持てない。  なぜか。それは実感がつねに本人の周囲から得られる情報に優先される物だからだ。ここに知識としての理性と経験としての実感が摩擦しあい、やがてどちらかがすり減り、意識の混乱がはじまる。 ―――ここから見下ろす街はなんて小さいのだろう。あの住所にわたしの家があるなんて想像もできない。あの公園はあんな形をしていただろうか。あんな所にあんな建物があったなんて知らなかった。これではまるで知らない街だ。なんだか、とても遠い所まで来てしまったみたいだ―――高すぎる視点はそういった実感を湧かせてしまう。  遠い所もなにも、いまもその本人は街の一部にきちんと立っているんだっていうのにね」  高い所は遠い所だ。それは距離的にもわかりきっている。けれど橙子さんが口にしているのは精神的な事なのだろう。  ただ水平に距離が離れている所と、高度として距離が離れている所。この二つの違いはただ一つ、風景を俯瞰図として見れるか見れないか。 「つまり、高いところから物を見続けるのはよくないんですか?」 「度がすぎるのはな。  古来では空は別の世界と認識されていた。飛ぶという事は、つまり異界を行くという事でね。文明(テツ)で武装しなければ異なる意識に染まってしまう。文字通り、正常な意識が狂ってしまうんだ。  もっとも、まともな認識のプロテクトをもっているのならそう悪影響は受けないだろう。確かな足場があるのなら問題ない。地上に戻れば正常に戻るさ」  …言われてみれば、学校の屋上からグランドを見下ろしていたとき、不意に飛び降りたらどうなるのだろう、という考えが浮かんだことがある。  そんなのはもちろん冗談だ。  実行する気なんてこれっぽっちもないけれど、その、明らかに死につながる考えが浮かんでしまうのは何故だろう。  個人差がある、と橙子さんは言うけれど、高い所にいって落ちる事をイメージする事は、そう珍しい事ではないと思う。 「…これって一時的だけど、思考が狂ってるって事ですか?」  うかんだ感想を口にしてみると、橙子さんはあはは、と乾いた笑いをこぼした。 「タブーを夢想するのは誰にだってあるよ、黒桐。人はやれない事を想像で楽しむ、という物凄い自慰能力を持っているからね。ただ、そうだな…今のは少しだけ近い。重要なのはその場所でしかその場所に関する禁忌への誘惑がこない、という事か。当たり前の事だがね。今の君の例は意識が狂ってるではなく、麻痺しているのだと思う」 「トウコ、話が長い」  もう我慢できない、とばかりに式が口をはさむ。言われてみれば、たしかに本題から外れてしまっているようだ。 「長くはない。まだ起承転結でいうのなら二つめだ」 「オレは結だけ聞きたいんだ。あんたと幹也のお喋りには付き合ってられない」 「式…」  ひどいけど、もっともな意見だった。  一言もない僕をよそに、式の文句はさらに続く。 「それと。高い所からの風景に問題があると言うけれど、じゃあ普通の視点ってなんだ。歩いている時だって、オレ達は地面より高い視点をしているじゃないか」  その、難癖をつけているようにしか見えない式の態度とは逆に、今の発言はたしかに的をいていた。  人の眼は、たしかに地上より高い位置に存在する。ならばその風景はおおむね俯瞰になっている場合もあるわけだからだ。  そんな式の言葉に、橙子さんはいいだろう、と頷いた。 どうやら結論に入ってくれるらしい。 「しかし君が水平と思っている地面も不確かな角度なんだぞ。だがまあ、それらを含めても通常の視界は俯瞰とは呼ばない。  視界とは眼球が捉える映像ではなく、脳が理解する映像だ。私達の視界は私達の常識によって守られているから、自身分の高さでは高いとは感じないし、それが常識ですらある。高いという概念はない。  しかしその反面、人間は誰しも俯瞰の視界で生きている。身体的な観測としてではなく、精神的な観測として。その個人差はまちまちだ。肥大した精神ほどより高見を目指すだろう。だが、それでも自らの箱を離脱する事はない。  人は箱の中で生活するものだし、箱の中でしか生活できないものだ。神さまの視点をもってはいけない。  その一線をこえると、ああいった怪物になる。  幻視(ヒュプノス)が現死(タナトス)に変わるんだ」  そう言葉を続ける橙子さん本人も、今は下界を見下ろしている。  地に足をつけて、下を見ている。  それはとても大事な事に思えた。  そして、僕はさっきまでの夢を思い出した。  蝶は最後には墜落してしまった。  彼女は、僕についてこようとしなければ、もっと優雅に飛べたのではないか。  そう、浮遊するようにはばたくのなら、もっと長く飛べていたはずだ。  けれど飛ぶという事をしっていた蝶は、浮遊する自身の軽さに耐えられなかった。  だから飛んだ。浮くのをやめて。  そこまで考えて、自分がこんな詩的な人間だったろうかと首をかしげた。  窓ぎわの橙子さんが煙草を外に投げ捨てる。 「巫条ビルのゆらぎは、彼女が見ていた世界なのかもしれない。式が感じた空気の違いは箱の中と外とを区別する壁ではないかと推測できる。  それは人の意識だけが観測する不連続面だ」  橙子さんの話が終わって、式はようやく不機嫌そうな態度を崩した。  ふん、と息をついて視線を泳がしている。 「不連続面ね。どっちが暖流でどっちが寒流だったのかな、あいつにとって」  深刻そうな台詞とは裏腹に、式はそれにはどうでもよさげだった。  橙子さんは同じく関心のない素振りをして、 「無論、君にとっての逆だろう」  なんて事を切り返していた。