→/3 ―――うなじの骨がシン、と軋む。  震えは外気の寒さからくるものなのか、内気の寒さからくるものなのか。  判別のつかないそれをほおっておいて、式は悠然と歩を進めた。  巫条ビルに人の気配はない。  午前二時、白ばんだ電灯だけがマンション内の通路を照らしている。クリーム色の壁は、完璧な光に照らされて通路の奥まで続いて見えた。闇を完璧に払拭した人工の光は、逆に人間味がなくて不気味だ。  カードチェックの玄関を素通りして、エレベーターに乗り込む。  中は無人。  奥に鏡が張り付けられており、利用者の姿を見せるという趣向がこらしてあった。  浅葱色の着物のうえに黒い皮製の上着を羽織った、けだるい目をした人物がそこにいる。  何にも関心がない、呆としたその瞳。  式は鏡に映る自分と向き合ったまま、Rのボタンを押した。  静かな機動音とともに、式の周囲の世界が上がっていく。機械仕掛けの箱は、数秒もかけずに屋上へと辿り着くだろう。  わずかな時間だけの密室。今この外で何が起きていようと式には何の関わりもなく、関わりようがない。その実感が、空虚なはずの心にわずかだけ染み込んだ。  この小さな箱だけが、今は自分が実感するべき世界。  音もなく扉が開く。  その先は一変して明かりのない空間だった。  屋上に通じる扉だけがある小部屋に出ると、式を残してエレベーターは一階へと下りていった。  電灯はなく、周囲は息苦しいほどに暗い。  足音を響かせて小部屋を横断し、屋上へ通じる扉を開けた。 ―――暗い闇が、昏い闇へとすりかわる。  視界いっぱいに街の夜景がとびこんだ。  巫条ビルの屋上は、特徴のない作りだった。  剥出しのコンクリートが真っ平らに続く床と、その周囲をかこむ編目条のフェンス。  今まで式がいた小部屋の上には給水タンクがあるだけで、他に目につくものは何もない。  作り自体は何の変哲もない屋上である。  ただ、その風景だけが異質だった。  周囲の建物より十階分は高い屋上からの夜景は、綺麗というより心細くなってしまう。  細い梯子の上に昇って、下界を見下ろしているようだ。  暗い、光の届かない深海めいた夜の街は、たしかに美しい。街のそこかしらかに灯る光は深海魚の瞬きに似ている。  自分の視界が世界の全てだというのなら。  たしかに今、世界は眠りについている。  おそらくは永劫に、おしむらくは仮初の。  その静けさはどんな寒さより心臓を締め付けて、痛いくらいだ―――。      そんな眼下と対をなして、夜空の冴え渡りも際立っていた。  街が深海ならば、こちらはただ純粋の闇。その闇に、宝石箱をばら蒔いたように星々が綺羅めいている。  月は穴。夜空という黒い画用紙に穿たれた、一際大きな穴としか見えない。  だから本当はアレは太陽の鏡などではなく、あちら側の風景が覗いているだけなのだ―――と、式は両儀の家で聞かされた事があった。  曰く、月は異界の門だという。  その、神代より魔術と女と死を背負ってきた月を背に、ひとつ、人型が浮遊していた。  その周囲に八人の少女を飛行させて。  夜空に浮かび上がる白い姿は女のものだ。  ドレスと見間違うほど華やかな白い衣裳と、腰まで届いている黒髪。  装束からのぞく手足は細く、この女を一層たおやかに見せていた。  細い眉と冷淡にかげる瞳は、美人の中でなお美人の部類に入るだろう。  年齢は二十代前半と推測できる。もっとも、幽霊じみた相手に生命としての年齢が当てはめるかは疑問だが。  白い女は、けれど幽霊というほど不確かではない。現実にそこにいる。幽霊と言うのならば、それは彼女を中心にして夜空を旋回している少女達のほうだろう。  ふわりふわりととりとめもなく中空を彷徨っている少女達は、飛んでいるというより泳いでいるようだ。その姿も不確かで、時おり形そのものが透明になる。  今、式の頭上にあるのは白い女と、それを守るように夜空を泳ぐ少女達だ。  その一連の光景はおぞましくはない。いや、むしろこれは――― 「ふん…たしかに、こいつは魔的だ」  嘲るように式は呟く。  この女の美しさは、すでに人のものではない。  特に黒髪は素晴らしく、絹糸を一本づつ梳ったかのような滑らかさだ。風が強ければ、黒髪のたなびく姿は幽玄の美となっていたろうに。 「なら、殺さなくっちゃな」  式の呟きに気付いたのか、彼女は視線を下界へと下げた。  この、地上40メートルを超える巫条ビルの屋上よりさらに4メートルの高処にある彼女と、見上げる式の視線が交差する。  交わす言葉なぞなく、通じる言語さえない。  式は上着の胸内に手をいれると短刀(ナイフ)を引き出した。刃渡り六寸もの、刀というより刃そのものの凶器を。  上空からの視線に、殺意が起こる。  つい、と白い装束がゆれた。  彼女の手が流れて、細い指先が式に向けられる。  その、細く脆い手足が連想させるのは白ではない。 「―――骨か、百合だ」  風の亡い夜、声は長く中空に残響した。                   ◆  差し向けた指先に篭められた意志は殺意。  白い指先はぴたりと式の姿に向けられた。  ぐらり、と式の頭がゆれる。  細い体は崩れ落ちるようにたたらを踏んだ。  わずか、一度だけ。 「――――――」  頭上の女は、それでわずかに怯んだ。  貴方は飛べるのだ、という暗示が、この相手には通じない。  相手の意識そのものに"飛んでいた"という印象をすり込むそれは、暗示の域をこえて洗脳の業にまで達している。  抗う事はできず、結果として本当にそれを実践してしまうか、それを信じられず、しかし飛べるのだという確固たる実感に恐れをなして早々に屋上から逃げていく事となる。  それを、式は軽い目眩だけでやり過ごした。 「――――――」  接触が浅かったのだろうか、と女は訝しみ、もう一度暗示を試みる事にした。  今度はより強く、飛べるなどという薄い印象ではなく飛ぶのだ、という確固たる印象にして。  それより先に、式は女を視た。  両足に二つ、背中に一つ。中心よりやや左よりの胸部に一点。―――死という名の切断面が確かに視える。  狙うのならとりわけ胸のあたりがいい。アレならば即死だ。たとえ幻像であろうと何であろうと、生きている相手ならば例え神でも殺してみせる。  式は右手だけで短刀をかかげた。柄を逆手に持ち、上空の相手へと瞳を絞る。    間、もう一度式の中に衝動が巻き起こった。 …飛べる。自分は飛べる。昔から空が好きだった。昨日も飛んでいたんだ。たぶん今日はもっと高く飛べる。  それは自由に。安らかに。笑うように。早く行かなくては。  何処に? 空に? 自由に?・・・・それは  現実からの逃避。大空への憧れ。重力の逆作用。地に足がついていない。無意識下の飛行。  行こう、行こう、行こう、行こう、行こう、行こう、―――――行け! 「冗談」  呟いて、式は素のままの左手を持ち上げた。  誘惑は式にはきかない。もう目眩さえしない。 「そんな憧れは、私の中にはないんだ。生きてる実感がないから、生の苦しみなんて知らない。  ああ、本当はおまえの事だってどうでもいいんだ」 ―――それは唄うような呟き。  生きる事についてまわる悲喜交々、大小様々な束縛を式は感じない。  だから苦しみからの解放なんてものに魅力も感じない。 「でも、あいつを連れていかれたままは困る。拠り所にしたのはこっちが先だから、返してもらうぞ」  何も握っていない左手が、中空を握る。  そのまま後へと引かれた左手に手繰られるように、女と少女達の姿がぐい、と式へと引き寄せられた。網にかかった魚達が、海水ごと陸に引き上げられるように。 「――――――!」  女の形相が変わる。彼女はさらに力をこめて意志を式へと叩きつけた。  言葉が通じるたのならば彼女はこう叫んでいただろう。  落ちろ――――と。  その怨嗟を完全に無視して、恐い声で式は言い返した。 「おまえが墜ちろ」、と。  急速に落下してきた女の胸に、短刀が突きささる。果物をナイフで刺すように呆気なく、刺された者が恍惚するほどの鋭さで。  出血はない。  女は胸から背中へと通り抜けた刃物のショックで動けず、びくん、と一度だけ痙攣した。  その遺体を、式は無造作に放り投げる。  フェンスの外―――夜の街中のただ中へと。  女の体は柵を擦り抜け、音もなく落下していった。  落ちぎわでさえ黒髪をなびかせる事もなく、白い衣裳を風にふくらませて闇に解けていく。  それは深海の底に沈んでいく、白い花のようだった。  そうして式は屋上から立ち去った。  頭上には、いまだ宙空を漂う少女達の姿が残っている。                 /4                   ◇  胸に刃物を突きさされて目が覚めた。  ものすごい衝撃だった。人の胸をたやすく貫くなんて、あの子はよほどの力持ちだったのだろう。  けれど、あれは狂暴な力ではなかった。  無駄がなく、骨と骨の隙間、肉と肉の狭間を当たり前のように貫通したのだ。  その、恐ろしいまでの一体感。  全身をなめまわして いく死の実感。  心臓を突き 破られる音と音と音。  わたしには痛みより その感覚が痛かった。  それは恐怖であり、例えようのない悦楽だったから。  背筋に走る悪寒は気が狂うほどで、体はがくがくと震えている。  泣きだしたいほどの不安と孤独、そして生への執着がそこにあって、わたしは声もださず、ただ、泣いた。  恐いからでも痛いからでもない。  毎夜、明日の朝には生きていますようにと祈って眠りにつくわたしでさえ、感じたの事のない死の体験がそこにあったからだ。  おそらく、わたしは永久にこの悪寒からは逃れられはしないだろう。  さかしまに、わたし自身がこの感覚に恋をしてしまった以上は―――。                  ◇  ガチャリ、とドアが開く音がした。  時計は二時をさしていて、閉ざされた窓からはお日さまの光が差し込んでいる気配がする。  診察の時間ではないから、面会人だろうか。  わたしの病室は個室で、他に人はいない。  あるのは溢れんばかりに差し込む陽光と、風に揺れた事のないクリーム色のカーテン、そしてこのベッドだけだ。 「失礼。巫条霧絵というのは君か」  やってきた人物は女性らしい。  すごくハスキーな声であいさつをすると、椅子にも座らずにわたしの傍らまでやってきた。  立ち尽くし、わたしを見下ろしているようだ。  その視線は冷たい感じがする。  …この人は、恐い人だ。きっとわたしを破滅させる。  それでもわたしは内心で喜んでもいた。だって面会しにきてくれる人は数年ぶりなのだ。たとえそれがわたしにとどめを刺しにきた死神であったって、とても追い帰したりはできない。 「あなたはわたしの敵ね」  ああ、と女性は頷いた。  わたしは意識を集中して、なんとかこの来訪者の姿を見てみようと努力する。 ―――強い日差しのせいか、大まかなシルエットしかわからない。  上着を着ていないけれど、皺ひとつないスーツ姿がガッコウの先生みたいで、少しほっとする。ただその白いシャツには濃い橙色のネクタイは派手すぎて、ちょっとだけ減点だ。 「あの子の知り合い? それとも本人?」 「いや、君が襲った方と君が襲われた方との知人だ。よりにもよっておかしな連中と関わったな。君も―――いや、お互いに運がない」  言って、女性は胸ポケットから何かを取出してすぐにしまった。 「病室は禁煙だったか。とくに君は肺をやられているようだ。紫煙は毒になるな」  残念そうに言う。  今のはシガレットの箱だったようだ。  わたしは煙草には触れた事もないけれど、なんとなく、この人が吸っている所を見たいと思った。たぶん…いやきっとリザードのパンプスとバッグをきめたマヌカンのように似合っているコトだろう。 「悪いのは肺だけではないな? それが原因ではあるが、肉体のいたる部分に腫瘍がみられる。末端では肉腫に始まり、なかはさらにひどい。まともなのはその髪ぐらいなものか。だというのによく体力が持つ。常人ならばここまで病魔に蝕まれる前に死亡してしまうものだがな。 ――――――何年になる、巫条霧絵」  入院生活の事を聞いているのだろう。でも、わたしはそれに答えられない。 「そんなのしらない。数えるのはやめたの」  だって意味がないもの。  わたしはここから、死ぬまで出られないんだから。  女の人はそうか、と短く呟いた。  同情も嫌悪もないその響きは、嫌いだ。わたしが貰える恩恵は誰かからの同情しかない。それさえも、この人はくれないというのだ。 「式に切断された場所は無事か? 話では心臓の左心室から大動脈の中間だというから、二尖弁あたりを刺殺されたか」  平静な声ですごい事を言ってくる。  わたしはその言葉の奇妙さに、つい笑みをこぼしてしまった。 「おかしなひと。心臓を切られてたら、こうしてお話なんてできないわ」 「もっともだ。今のは確認だよ」  ああ、そうか。わたしがあの和風とも洋風ともとれない格好の人にやられたモノなのかどうか、この人は言葉で確かめたのだ。 「だがいずれ影響はでるぞ。式の目は強力だ。あれが二重存在だったとしても、崩壊はいずれ君本体へと辿り着く。  その前に二三訊ねたい事があってね。こうして足を運んだという訳だ」  二重存在…あの、もう一人のわたしの事だろうか。 「私は浮いていたという君を見ていない。正体を教えてくれないか」 「わたしにも分からないわ。わたしが見れる風景はこの窓からの景色だけだもの。  でも、それがいけなかったのかもしれない。  ずっとここから外を見下ろしていた。四季を彩る木々や、かわるがわるに入院していく人達を。  声を出しても聞いてもらえず、手を延ばしても届かない。この病室の中だけで、ずっとわたしは喘いできた。ずっと外の景色を憎み続けてきた。そういうのって呪うって事でしょう?」 「…ふむ、巫条の血か。君の家柄は古い純血種だ。祈祷が専門だったようだが、なるほど、本性は呪咀(市子)が生業だったとみえる。巫条の性、不浄の言代なのかもしれない」  家柄。  わたしの家。  それももう何年も前に絶えてしまった。  わたしが入院して間もない頃、両親と弟は事故で亡くなったのだから。それからのわたしの医療費は、父の友人だったという人が受け持ってくれている。 「呪いは無意識下で行なうものではない。一体、君は何を願った」  …そんな事、私にはわからない。きっとこの人にだってわかりはしないだろう。 「…あなた、ずっと外を眺めていた事がある?  何年も何年も、意識が途絶えてしまうまで見つめ続けた事が。わたしは外が嫌いで、憎くて、恐かった。ずっと上から見下ろしていた。  そうしていたらね、いつか目がおかしくなったの。ちょうどあそこの中庭の空にいて、下を見下ろしているようになった。体と心はここにあって、目だけが空を飛んでいるよ うな感覚。でもわたしはここから動けないから、結局はこのあたりを上から見下ろす事 しかできなかったけど」 「…ここ周辺の風景を脳内に取り込んだか。それならどのような角度からでも見たと思えるだろう。・・・視力を失ったのはその頃だな?」  驚いた。この人は、わたしの視力がもうほとんど無いという事に気付いている。  わたしは頷いた。 「そうよ。だんだん世界が白くなっていって、やがて何もなくなった。はじめは真っ暗やみになったのかと思ったけど、違うの。  何もなくなったのよ、目に見えるものはね。  けどそれに何の問題もなかった。だって、わたしの目はもう空に浮いているんだもの。病院のまわりの風景しか見えないけど、もとからわたしはここから出れない。 何も変わらないわ。何も・・・」  せこで、わたしは咳き込んだ。こんなに話しをしたのは久しぶりだから。それに、なんだか瞼が熱い。 「なるほど。それで君の意識は空にあったという事か。だが―――それでは何故君は生きている。巫条ビルの幽霊が君の意識であったのなら、君は式に殺されている筈だ」  そう、わたしもそれは疑問に思う。  あの子…式という名前らしいけれど、どうしてあの子はわたしに切り付けられたのだろう。  あのわたしは何も触れないかわりに何にも傷つけられる事はないのに。まるであのわたしが本当の体を持っていたかのように、あっさりと殺害してしまったのだ。 「答えろ。巫条ビルの君は、本当に巫条霧絵だったのか」 「巫条ビルのわたしはわたしじゃない。空を見つめ続けていたわたしと、空にいたわたし。あのわたしは、わたしを見限って飛んでいってしまった。わたしは自分にさえ置いていかれたの」  女の人が息をのむ。はじめて、この人が感情らしきものを見せた。 「人格が二つに別れた―――ではないな。もとから一つだった君に、二つ目の器を与えた者がいる。同一の人格で二つの体を操っていたのか。たしかにこれは類を見ない」  言われてみればそうなのかもしれない。  わたしは、ここにいるわたしを見捨てて街を見下ろしていた。けれどどちらのわたしも決して地に足はつけられず、ただ浮いているだけだった。窓の外の世界と根絶されているわたしは、いくら望んでもその隔たりを突破する事はできないのだ。  別々になっても、結局わたし達は繋がっていたということなのだろう。 「―――納得がいった。だが、なぜ君は外の世界を幻視するだけでは満足しなかったんだ。彼女達を落としてしまう必要はなかったと思うが」  彼女達―――ああ、あの羨ましい女の子たち。あの子たちにはかわいそうな事をした。けど、わたしは何もしていない。あれはあの子たちが勝手に落ちていっただけなのだから。 「巫条ビルの君は意識体に近かった。それを利用したな? あの少女達ははじめから飛べていたんだろう? それが彼女達の夢の中のイメージだけにせよ、実際に飛行能力があったにせよ、だ。  夢遊病者ならぬ夢遊飛行者はわりと多いが、そう問題にはならない。なぜか。それは彼らはつねに無意識下でなければ病状を表さず、無意識下であればこそ何の悪意ももたず飛行し、正常時には飛ぼうなどとも思わないからだ。  彼女らはその中でもとくに特別だった。ピーターパンではないが、幼年期というものはとかく浮きやすい。一人か二人は実際に飛行していたろうが、大半は意識だけが飛行し、そんな夢を見たという感覚でしかなかった筈だ。  それを君は意識させた。彼女達のそういった無意識下での印象を現実に引き戻して。  結果、彼女たちは自分が飛べるのだという事実を知ってしまった。ああ、もちろん飛べるとも。だかそれは無意識下であればの話だ。  ヒト単体での飛行は難しいんだ。わたしだって箒がなくてはとべない。  意識しての飛行の成功率は三割程度。少女達は当たり前のように飛ぼうとして、当然のように落ちた」  そう。あの子たちはわたしのまわりを飛んでいた。友達になれると思った。けどあの子たちはわたしに気付きもしないで、ただ魚のように漂うだけだったのだ。  意識がない、と気付いてからは早かった。あの子たちに意識させてあげればわたしに気付いてくれると思ったのに。  それだけなのに、どうして――――。 「寒いのか、震えているぞ」  女の人の声は相変わらずだ。プラスチックのように味気ない。  わたしは悪寒のとまらない背中を抱いた。 「もう一つ聞いておこう。君はどうして空に憧れた。外の世界を憎んでいるのに」  それは、たぶん――― 「空には、果てがないから。  どこまでも行ければ、どこへでも飛べれば、わたしの嫌いじゃない世界があると思ってた」  それは見つかったか、と声が尋ねる。  わたしの悪寒はとまらない。  体は誰かに揺すられるように震え、瞼は一段と熱くなってきている。  わたしは頷いた。 「―――毎夜、眠る前に朝になって目が覚めるのかって恐れてた。明日は生きているのかって怯えてた。眠ったら、もう起きる体力はないとわかってた。  綱渡りみたいなわたしの日々は、死への怖れしかなかったわ。けど逆に、だからこそ生きているって実感できた。  わたしの虚ろな日々は、死の匂いしかなかった。けれど生きていくには、その死の匂いだけが頼りだった。  普段のわたしはもう脱け殻だから。死と直面した瞬間しか、生きていると実感できない」  そうだ。だからわたしは、生より死に焦がれている。  何処までも飛ぶ。何処へでも行く。 ――――――その為に。 「うちの坊やを連れていったのは、道連れか」 「いえ。あの時は、それに気付いていなかった。わたしは生に執着していて、生きたまま飛びたかったの。彼とならそれが出来た筈だから」 「…式と君は近いな。黒桐を選ぶあたりはまだ救いがある。自分ではできない生の実感を他人に求めるのは、まあ、悪い事じゃないが」  黒桐。そうか、あの式という子は彼を取り戻す為にやってきたのか。  救いの主はわたしにとって決定的な死神でもあったんだ。けれど、それに後悔はない。 「あの人、子供なのよ。いつでも空をみてる。いつでもまっすぐにしている。だからその気になれば、どこへだって飛んでいけるんだわ。 ―――わたしは、彼に連れていってほしかった」  瞼が熱い。よくわからないけれど、たぶんわたしは泣いている。  悲しいからとかじゃなくて―――彼と、本当にどこかに行けたのなら、それはどんなに幸福だったろう。  叶わない事だから、叶えてはいけない夢だから、それはこんなにも美しくて、わたしの瞳を濡らすのだ―――。  それはここ数年でわたしが見た、ただ一つの幻想(ユメ)だった。 「だが黒桐は空になど興味はない。  …空に憧れる者ほど空には近付けない、か。皮肉だな」 「そうね。人間は必要じゃない物をいっぱい持ってるって聞いた事があるわ。わたしは浮くだけだった。飛ぶ事もできず、浮いている事しか出来なかった」  瞼の熱さは消えた。たぶん、この先二度とこんな事はないだろう。  今わたしを支配するのは、背中に走るこの寒気だけだった。 「邪魔をした。これが最後になるが、君はこの後どうする? 式にやられた傷なら私が治療してもいい」  わたしは答えず、ただ首をふった。  女の人はすこしだけ眉を細めたようだ。 「…そうか。  逃走には二種類ある。目的のない逃走と、目的のある逃走だ。  一般に前者を浮遊と呼び、後者を飛行と呼ぶ。  君の俯瞰風景がどちらであるかは、君自身が決める事だ。  だがもし君が罪の意識でどちらかを選ぶのなら、それは間違いだぞ。我々は背負った罪によって道を選ぶのではなく、選んだ道で罪を背負うべきだからだ」  そして女の人は去っていった。  最後まで名前を名乗らなかったけれど、それは必要がなかったからだとわかる。  …彼女には、はじめからわたしの取る結末がわかっていたに違いない。だってわたしは飛べなかった。ただ浮いていただけだから。  わたしは弱いから、あの人の言ったようにはできない。  だから、この誘惑にも勝てない。  あの時―――心臓を貫かれた瞬間に感じた閃光。  圧倒的なまでの死の奔流と生の鼓動。  わたしには何も無いと思っていたけれど、まだそんな単純で大切なものが残っていた。  有るのは死。  背骨を凍らすこの怖れ。  あらんかぎりの死をぶつけて、生の喜びを感じなければならない。  わたしが今まで蔑ろにしてきた、わたしの生命であった全てのために。  けれどあの夜のような死を迎えるのは不可能だろう。  あれほど鮮烈な最後は、もうおそらくは望めまい。針のように、剣のように、雷のようにわたしを貫いたあの死には。  だから出来るだけそれに近付こうと思う。考えは浮かばないけれど、わたしにはあと数日の限りがあるから大丈夫。  それに、方法だけはもう決まっている。  言うまでもないけれど、わたしの最後は、やはり俯瞰からの墜落死がいいと思うのだ。              /俯瞰風景  陽が落ちて、僕らは橙子さんの廃ビルを後にした。式のアパートはこの周辺だが、僕の住み家には二十分近く電車にゆられなくてはいけない。  眠り足りないのか、式はおぼつかない足取りで、けれどこちらにぴったりと寄り添って歩いている。 「自殺は正しいのかな、幹也」  不意に、式はそんな事を聞いてきた。うつむき加減なその仕草が、どこかいじらしく見えた。 「うん、どうだろうね。たとえば僕が物凄いレトロウィルスに感染して、生きているだけで東京全員の市民が死んでしまうとする。僕が死ねばみんな助かるというのなら、僕はたぶん自殺するよ」 「なんだよ、それは。そんなありえない話じゃ例え話にもならない」 「いいから。でも、それは僕が弱いからなんだと思う。  東京の市民みんなを敵にまわして生き抜くなんて度胸はないから、自殺するんだよ。そのほうが安易だろ? 一時の勇気と、永久に続けなければいけない勇気。どっちが苦しいかはわかるだろ。  曲論だけど、死は甘えなんだと思う。それがどのような決断の下であれ、ね。けれど当事者にはどうしようもなく逃げたい時もあるだろう。それは否定できないし、反論もできない。だって僕も弱い人間だから」  あ、でもこれって傷の舐めあいになってしまうな。自分もそうだから君もやっていいよ、なんて保険を作っているのと同じだ。  たぶん、今いったような状況での自己犠牲は正しいものだし、その行為は英雄と評価されるだろう。  けど、違う。いくら正しくても立派でも、死を選ぶのは愚かなんだ。僕らは、たぶん、どんなに無様でも間違っていても、その過ちを正す為に生き抜かないといけない。  生き抜いて、自分の行なった結末を受け入れなくてはいけない。  それはとても勇気がいる事だ。自分にそれが出来るとも思えないし、なんだか偉そうなので口にするのはやめておいた。 「…えーと、とにかく、人それぞれってコトなんじゃないかな」  なんとも半端な言葉でまとめると、式は訝しぶような視線を向けてきた。 「でも、おまえは違うよ」  まるでこっちの心の呟きを見透かしたように式は言う。それは冷めていても、どこか熱のある言葉だった。  なんだか照れくさくて、しばし無言で街を歩いた。  大通りの喧騒が近付いてくる。  華やかな明かりと雑踏、賑やかな車のライトとエンジン音。あふれかえるような人なみと雑多な音たち。  大通りのデパート郡を抜ければ、駅はすぐそこだ。  と、その時式はぴたりと立ち止まった。 「幹也、今日は泊まれ」 「は? なんでさ、突然」  いいから、と式は手をひっぱる。  そりゃあ式のアパートは近いから楽ではあるけど、やっぱり道徳上泊まるのは気が引ける。 「いいって。式の部屋って何もないじゃないか。いってもつまんないし。それとも何か用事でもあるの?」  そんなものがないのは分かっている。  分かっていた言ったんだから、式には反撃のチャンスはない。…と思う。  が、式はこっちに比があるような、非難がましい目をして反論してきた。 「ストロベリー」 「は?」 「ハーゲンダッツのストロベリー、二つ。おまえがこの間買ってきてそのままだ。始末してけ」 「…そういえば、そんな事もあったっけ」  あったあった。  式の家に迎う途中、あんまりに暑いんで買っていったお土産だ。けど、なんだって自分はそんな物を買っていったんだろう。もう暦は九月になろうとしているのに。  まあ、そんな些細な事はどうでもいい。どうやらここは式に従うしかないようだ。でも、それはなんとなく癪に触るので少しだけ反撃する事にしよう。  式には、それを言われると癇癪をおこすものの黙ってしまう、という泣き所があるのだ。  もっともそれは黒桐幹也としての本心からの頼みでもあるのだけれど、式はまだ聞き入れてくれない。 「しょうがない、今日は泊まるよ。でもね、式」  うん? と視線を向ける式に、僕は真顔で提案した。 「始末しろ、はないだろ。その言葉使いだけでもなんとかしてくれ。君は女の子なんだから」  言われて、式は怒ったようにそっぽを向いた。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――                            /俯瞰風景  その日の帰り道は大通りをつかう事にした。  自分にしては珍しい、ほんの気紛れである。  見飽きたビル街に記憶をふりわける事なく歩いていくと、ほどなくして人が落ちてきた。  あまり聞く機会のない、ぐしゃりという音。  ビルから降ちて死んだのは明白だった。  アスファルトには朱色が流れていく。  その中で原型を留めるのは長い黒髪と。  細く、白を連想させる脆い手足。  そして貌の亡い、潰れた顔。  その一連の映像は、古びた頁に挟まれ、書に取り込まれて平面となった押し花を幻想させた。  それが誰であるか、自分は識っていた。  眠り(ヒュピノス)は、やはり現実(タナトス)となる事で還る事になったのだろう。  集まってくる人だかりを無視して歩きだすと、ぱたぱたと不思議な足音をたてて鮮花が追い付いてきた。 「橙子さん、今の飛び降り自殺でしたね」 「ああ、そのようだね」…曖昧に答える。  正直、あまり興味はなかったからだ。  その当事者の決意がどのようなものであれ、自殺はやはり自殺として扱われる。  彼女の最後の意志は飛行でもなく浮遊でもなく、墜落という単語で纏められてしまう。  そこにあるのは虚しさだけだ。興味が持てる筈もない。 「去年は多かったって聞いたけど、まだ流行しだしたんでしょうか。でもあたし、自分で死んじゃうヒトの気持ちって分かんないな。 ―――橙子さんはわかります?」  ああ、とまた曖昧な頷きをする。  空を見上げ、本来ありえない幻像を眺めるように答えた。 「自殺に理由はない。たんに、今日は飛べなかっただけだろう」