わたしがまだ小さかったころ、おままごとをして手の平をきった事がありました。  借物、偽物、作り物。  そんなちゃっちゃな料理道具の中に、ひとつだけ本物がまざっていたからです。  飾りが立派な細い刃物を手にして戯んでいたわたしは、いつのまにか指のあいだを深く切り刻んでいました。  手の平を真っ赤にして母のもとに帰ると、  母はわたしを叱りつけてから泣きだし、最後に優しく抱き留めてくれたのを記憶しています。  痛かったでしょう、と母は言いました。  わたしはそんなわけのわからない言葉なんかより抱きしめてもらえた事のが嬉しく、母と一緒に泣きだしました。  藤乃、傷は治れば痛まなくなりますからね―――。  傷に白いほうたいを巻きながら母さまは言います。  わたしはその言葉の意味もわかりません。  だって一度も、私は痛いとは感じなかったのですから。                         /痛覚残留 ―――――――――――――――――――――――――――――――            0 (痛覚残留/5) 「珍しい紹介状を持ってきたネ、きみ」  大学の研究室。  白衣の似合う初老の教授は、どこか爬虫類じみた笑みをうかべて握手を求めてきた。 「へえ、超能力。きみ、そんなものに興味があるの」 「いえ、それがどんな物なのか知りたいだけです」 「そういうの、興味って言うんだよネ。まあいいけど。  名詞を紹介状がわりにするなんて、彼女らしいなぁ。彼女、ボクの教え子の中じゃ突き抜けてたからさ、気にしてるんだよ。ここも使えるヤツが少なくなる一方でね、人材が無いの。  うン。足りないのは、困るよね」 「あの、超能力の話なんですけど」 「ああ、そうそう、超能力。  でもねぇ、超能力っていったって種類があるよ。うちじゃ本格的に計測してもないから、参考になるかなぁ。  この業界じゃ鬼門だから、日本じゃ数えるぐらいしか研究施設はないんだよネ。決まってそういうの、ブラックボックスになっちゃてるから。ボクの所までくわしい話はこないんだ。  うン、ここ三年でかなり実用的なレベルまであがったって話だけど、どうかなあ。あれはほら、生まれた時から突き抜けてないとダメだから」 「超能力の区別はいいんです。たぶんPKだと思いますから。僕が聞きたいのは、人間が超能力をどういうふうに持ってしまったか、という話で」 「チャンネルだよ。テレビ、きみは見る?」 「はあ、そりゃあ見ますけど――――それが何か?」 「人間の脳をチャンネルにみたてるんだ。  きみ、日常で平均的に見てるチャンネルはなにかナ」 「…そうですね、8チャンネルだと思います」 「それ。それって一番視聴率がいいチャンネルって事だよネ。  人間ってモノの脳には十二個のチャンネルがあるとする。ボクやきみの脳はね、つねにその8チャンネル…一番視聴率のいい番組にあってるんだ。それ以外のチャンネルはあるんだけど、ボクらには行けない。一番みんなが見ている番組、つまり常識かな。その常識の中で生きて、生きられるボクらのもっているチャンネルが8チャンネル。わかる?」 「――――その、いちばん当たり障りのない番組を見せられてるってコトですか?」 「違う違う。それが一番いいの。十九世紀の常識、つまり一番視聴率のいい法則が8チャンネル。ボクらはそこにいられるんだから、それが一番平和でしょ。常識の中に生きて、常識という絶対法則に守られて意志疎通ができちゃう。素敵だ」 「ほかのチャンネルは平和じゃないと?」 「どうだろうねエ。  たとえば3チャンネルは人間の言語のかわりに植物の言語を受信してしまえるチャンネルだとする。  たとえば4チャンネルは本来、肉体を動かす筈の脳波が自分の肉体ではなく外界の物体を動かしてしまうチャンネルだとする。  この手のチャンネルはあれば凄いよ。けど、そこには8チャンネルで流れている常識はないよね。  今の時代に即して生きる為のチャンネルはみんなが共通して使ってる8チャンネルなんだから、それ以外には常識とか道徳とかが流れていない。少なくとも、8チャンネルで流れてる当たり前の常識はネ」 「――つまり、8チャンネルがないって事は精神異常者ってことになるんですか?」 「うん。かりに3チャネルしかもっていない人間がいるとすれば、その人間は植物と話せるかわりに人間と話せない。結果として、社会は精神異常者として病棟に監禁する。  超能力者っていうのはそういうコト。生まれながらにしてみんなの共通のチャンネルではなく、ほかのチャンネルをもっている人間の事サ。  でもね、たいていの超能力者は8チャンネルと4チャンネルあたりを同時に持っていて、使い分けてるんだ。  チャンネルなんだから、見たいときに番組、変えられるでしょ? 4チャンを見ている時は8チャンは見れない。8チャンを見ている時は4チャンが見れない。  世間に紛れ込んでいる超能力者はね、そういうふうに使い分けて生きてる。普通な自分と異常な自分ってヤツを」 「なるほど、だから――4チャンネルしか持っていない人間には常識が通用しない。いや、初めからそんな物がないんだ」 「そうだよ。  そういう人をね、世間は殺人鬼とか狂人とか言うけど、ボクらはこう呼ぶ。"存在不適合者"って。  社会に不適合な人間はいっぱいいるけど、彼らはその存在自体がすでに不適合なんだ。存在していてはいけない。いや、していられない。  もし仮にだよ。今まで普通のチャンネルと4チャンネルを持っていた人がいて、何かの弾みで肉体の機能が破壊されて普通のチャンネルに行けなくなったら、その人間は終わりだ。今までの生活で常識を知っていたにせよ、そのチャンネルに行けないのでは結局ボクらと話が合わなくなる。電波、違うからネ」 「存在不適合者を、適合者にする方法はありますか」 「うん、生命活動が停止すればいいんじゃなイ?  もっと的確にいうと、その異常なチャンネルを破壊すればいい。でもそれって脳を潰すって事だからサ。結局殺すしかないわけ。肉体の機能を壊さずその組織だけ壊すなんて都合のいい技術はまだない。あったらそれこそ超能力だよネ。一番強力な12チャンあたりかな。あのチャンネル、なんでもありだから」  あはは、と教授は心底おかしそうに笑った。 「…参考になりました。  ところで博士。その、PKと呼ばれる超能力で一番ポピュラーなのはスプーン曲げですか?」 「なに、スプーンって曲がるの?」 「スプーンは知りませんけど、人間の腕ぐらいなら」 「それってきみぐらいの成人の腕? すごいね、そりゃあ。 "歪曲"は物の硬さより物の大きさが問題になる。人間の腕を曲げるなんて七日はかかるんじゃないかな。  で、それはどっち向きかナ? 右かな、左かな」 「――――それ、意味があるんですか?」 「あるよ。支点の問題。地球だって回転方向あるでしょ。え、一定してない? …ふーん、それって実在の能力? なら関わらないほうがいい。チャンネル、二つ以上もってるよ、その存在不適合者。 左回転と右回転。たぶん同時に回せるんだ。ボクね、チャンネルをふたつも持ってて、それを同時に使えるなんてケースは聞いた事がない。001と002が合体したら、009だって負けちゃうでしょ」 「…あの、時間がないんでこのあたりで失礼させて頂きます。これから長野県まで行かないといけませんので。  ええ、今日は本当にお邪魔しました」 「うん、いいよいいよ。彼女の紹介ならいくらでも来て。  それでさ、きみ。蒼崎くん、元気なの?」               /1                 ぼんやりとした意識のまま、浅上藤乃(アサガミフジノ)は身を起こした。  周囲に人影はない。  藤乃は部屋の中にいた。  部屋の電灯はついていない。いや、そんなものがある筈もない。 暗い闇だけが、彼女の周囲に散乱していた。 「ん――――」  悩ましげに吐息をもらして、藤乃は自身の長い髪にふれてみる。 …左肩から胸元まで下げていたほうの房が切られていた。さっきまで自分にのしかかっていた男がナイフで切ったためだろう。  それを思い出して、彼女はようやく周りを見渡した。  ここは地下に作られたバー。  半年前に経営難を理由で放棄されて、その後に不良たちの溜り場になってしまった廃屋だ。  …部屋の隅には乱暴に追いやられたパイプ椅子がある。  …部屋の真ん中にはひとつだけビリヤード台が残されている。  …コンビニで仕入れてきた簡易食は食い散らかされて、容器が山積みになっている。  そうした色々な怠惰の形が、醜悪な香を作っているようだった。 部屋に充満するすえた匂いに、藤乃は不快になる。  ここは廃墟。それともどこか遠い国にあるスラム街の路地裏だろうか。階段を上がった先に正常な街が存在しているなんて、想像もできやしない。  ここでまともな物といえば、きっと彼らがもちこんだアルコールランプの匂いだけだろう。 「ええと――――」  きょろきょろと、やけに丁寧な仕草で周囲を見渡す。  藤乃の意識はまだ本調子ではなかった。 ―――さっきまで起こっていた事が、まだ把握できていない。  彼女は自分の傍らに転がっている手首を拾いあげた。捻り切られた手首には腕時計が巻かれている。  デジタル表示が1998年の七月二十日を示していた。  時刻は午後八時。あれから一時間も経っていない。 「くっ…!」  突発的な痛みに襲われて、藤乃は呻いた。  腹部に物凄い感覚が残る。  自分の中身が締めつけられるようなもどかしさに、彼女は耐え切れずに身をねじった。  ぴしゃり、と床につけた手が音をたてる。  見れば、この廃墟の床は一面が水浸しだった。 「…ああ、たしか今日は雨でした」  誰に語るでもなく呟くと、藤乃は立ち上がった。  ちらりと自分の腹部を見る。  そこには血の跡があった。自分が、浅上藤乃が、ここに散らばっている男達に刺された傷が。                 ◇  藤乃をナイフで刺した男は、街では有名な人物だった。 ドロップアウトした高校生の中でも一際目立ち、遊び人達のリーダーのような存在として知れ渡っていた。  気の合う仲間を集めてやりたい事だけをやっていた彼は、娯楽の一環として藤乃を凌辱した。  理由はあまりない。ただ彼女が礼園女学院の生徒であり、美人だったからだろう。  すこしだけ野蛮で、振り返らないぐらい我侭で、どことなく頭が悪そうだった彼と、彼の類似品めいた彼らは、一度の暴行だけでは飽き足らなかった。  彼らとて、本来は自分達が訴えられる立場にあると知っていたらしいのだが、藤乃が誰にも相談せずに悩んでいるとしって気を変えた。  強いのは自分達のほうなのだと気がついて、幾度となく彼女をこの廃墟に連れ込んだ。  今晩もその延長で、彼らは安心しきり、またこの行為に飽きつつあった。  あの男がナイフを持ち出した事も、そういった惰性的な繰り返しを打破する為だったのだろう。  凌辱されながらも日々を変わらず過ごす藤乃に、若者達のリーダーは自尊心を傷つけられていたのだ。彼は藤乃を支配するのは自分なのだという、たしかな証しがほしかった。  その為のさらなる暴力としてナイフを用意した。  けれど、少女はよけい冷めた顔をするだけだった。  ナイフを突きつけられても表情を変えない少女に、彼はいきり立って藤乃を押し倒し、そして――――。                 ◇ 「…これじゃ、外には出られない」  血にまみれた自身に触れて、藤乃は目を伏せた。  自分の流した血は腹部に残る刺し傷だけだったが、髪から靴にいたるまで彼らの血液で汚れてしまっていた。  躯のあちこちに付着した血液―――粘つく赤色は簡単にはおとせそうにない。  藤乃はひとり呟く。       「こんなに穢(ヨゴ)れて―――馬鹿みたい」  そして、床に散らばった若者達の肉体の一つを蹴りつけた。  今日まで犯され続けた事より、血に汚れた事のほうが許せないのか。  普段の自分からはほど遠い凶暴性に驚きつつ、藤乃は考える。  外は雨だ。あと一時間もすれば人通りも少なくなる。雨といっても季節は夏だから、冷たいという事もあるまい。雨で血を落としながら公園にいって、そこでなんとか汚れを落とそう――――。  そう結論を下すと、彼女はとたんに落ち着いた。  血だまりの中から歩いて、ビリヤード台の上に腰をかける。そこでようやく死体を数えた。  一つ、二つ、三つ、四つ。…四つ。……四つ。………どんなに数えても、四つ!  愕然とした。 ――――――――ひとつ、足りない。 「ひとり、お逃げになったのですね――――」  儚げに洩らす。  なら自分は警察に捕まってしまうだろう。  彼が交番に駆け込めば、わたしはそのまま逮捕される。  けれど―――はたして、彼が交番にいくだろうか?  この出来事を、どのように説明できる?  浅上藤乃という少女を大人数で拉致して凌辱し、その件を学園側に公表されたくなければ大人しく従え、という脅迫をした初まりから説明する―――? まさか。  そんな事は不可能だし、こんな連中に真実を隠してうまく作り話をする能力はあるまい。  藤乃は少しだけ安堵すると、ビリヤード台にあるランプに火を灯した。  ぼう、という乾いた音がしてランプの炎が暗闇を照らしあげる。 十六個ものバラバラの手足が、はっきりと浮かび上がった。探せば胴体と首も四っつづつあるだろう。  オレンジ色の光に照らされて、気が狂ったかのように赤く塗り替えられた部屋は、あらゆる意味で終わっていた。  その惨状を、藤乃はあまり気にしなかった。  …一人、逃げた。彼女の復讐はまだ終わっていない。  喜ばしい事に、まだ終わってはいなかった。 「わたし、復讐しなくちゃいけないのかしら―――」  まだあと一人殺さなくてはいけない、という事実に藤乃は恐怖した。出来るはずがない、と体が震える。  でも彼の口を封じないと自分の身が危ない。いや、だとしても人を殺すなんて、そんな悪い事を行なうのはもう厭だ―――。  それは彼女のまったくの本心だった。  …血だまりに映った彼女の口元は、小さく笑っていた。