/2  電話のコール音が響く。  五回ほど鳴って音は止まり、留守番電話にきりかわった。  ぴー、という発進音のあとに、今まで私が聞き慣れていたらしい男の声が流れる。 「おはよう式。さっそくだけど頼まれてくれないかな。今日の正午きっかりに駅前のアーネンエルベって喫茶店で鮮花と待ち合わせしてたんだけど、どうもいけそうにない。  君、暇だろ。いって僕は来ないって伝言しておいてくれ」  電話はそこできれた。  …私はけだるい体を動かして、ベッドのわきの時計を見る。  七月二十二日、午前七時二十三分。  自分が帰ってきてからまだ四時間ほどしか経っていない。  昨日、トウコの依頼を了承して夜の街を朝の三時ごろまで歩き回っていたせいか、体がまだ眠りたがっていた。  私はシーツをかぶりなおす。  真夏の朝の暑さも、私にはあまり関係がない。両儀式は子供のころから暑さや寒さには我慢強い体質で、それは今の私にも受け継がれているからだ。  しばらくそうしていると、もう一度電話のコール音が響いた。  電話は留守番電話にきりかわり、次にあまり聞きたくない声が流れてくる。 「私だ。ニュースは見たか? 見ていないな。見なくていいぞ、私も見てない」  …つねづね思っていたが、確信した。あの女の思考の機構は私とは大きくかけ離れている。トウコの言葉の本意を理解してはいけない。 「昨晩起こった死亡事件は三件。もう恒例になった飛び降り自殺の追加と、痴情のもつれによる物がふたつだ。  そのどれも報道されていないから、あくまで事故と片付けられたのだろう。だが一つだけ奇怪なケースがある。詳しく聞きたければ私の所までこい。ああ、いや、やはり来なくていい。考えみればこれで事が足りる。  いいか、ねぼけてる君の為にわかりやすく言ってやるとだな、ようするに犠牲者が一人増えたということだ」  電話はそこできれた。  私も、そこできれそうになった。  犠牲者がひとりふたり増えた所で、私には何の関係もない。  身近な現実さえも不確かな私にとって、そんな遠い出来事はそれこそ無価値だ。名前も知らない連中の死なんて、いま肌をさす陽射しより印象が弱い。  体の疲れがとれた頃、私は起床した。  以前の式が十六年間にわたって学習した常識どおりに朝食の支度をして、それを口に運び、出掛ける支度をする。  今日は淡い橙の紬(ツムギ)に袖を通す。  昼間から街を歩くのだから、着物は街着である紬が好ましい。 ―――自分の意見と思われるそんな服選びも、実の所は過去からの習慣でしかない。  誰かの生活をまじかで観ているような感覚に襲われて、私は舌を噛む。  二年前。まだ両儀式が十七才だった頃はこうではなかった。  二年間にもおよぶ昏睡状態が私を変えた訳でもない。…空白の二年間がもたらしたものは、もっと別のモノなのだ。  そんな事は別にしても、今の私は私の意志で動いている気がしない。両儀式という十六年間の糸が、私を人形のように操っている錯覚がいつもある。  けどそれは本当に錯覚だろう。  どんなに空虚だ、虚構だ、飯事だと罵っても、私は結局自分の意志で行動している。そこに私以外の意志が介入する事はできないのだから。  着替え終わると、時刻はじき十一時になろうとしていた。  私は一本目の留守番電話をリピートする。  過去、何度も聞いたはずの声が繰り返された。一度大気に飛んで失われたはずの声は、こうして録音されている。  …黒桐幹也。  二年前、私が最後に見た人物。  二年前、私が一度だけ心を許したクラスメイト。  彼との様々な過去は知っているというのに、その最後の映像だけが無い。  いや、彼と関わってからの一年間の記憶は穴だらけだ。ところどころ、大事な部分が欠落している。  どうして式は事故にあったのか。  どうしてその瞬間に幹也の顔を見ていたのか。  忘却した記憶が録音されていたのなら、それはどんなに便利だろう。私はその欠落が気になって、まだうまく黒桐幹也と話をする事が出来ないでいた。  …留守番電話の再生が止まる。  幹也の声を聞くとほんの少しだけ苛立ちが消えるのが不思議だった。何か、確かな足場があるような感覚がえられるのだけど、声という物が足場になるはずもない。  それも錯覚だろう。  たぶんきっと錯覚なのだ。  今の私が得られる唯一つの現実は、殺人を犯す時の燃えつくような高揚感だけなのだから。                 …  アーネンエルベはアンティークな喫茶店だった。  ドイツ語で書かれた店の看板を確かめて中に入る。  正午すぎだというのに客の数は少なかった。  どのような作りなのか、店内は仄暗い。外側に面したテーブルだけが明るく、カウンターである店の奥がやけに暗い。  壁には四角い窓が四つほど作られていて、照明はそこから入ってくる陽射しだけだった。天然の照明がはいる窓ぎわのテーブルだけが、四角く切り取られたように明るい。  夏の強い陽射しのせいか、その明と暗の色彩は陰気ではなくむしろ荘厳さすら感じさせる。  その四つだけの窓の一番奥のテーブルに黒桐鮮花は座っていた。 西洋らしいデザインの学生服をきた少女がふたり、横に並んで幹也を待っている。 「ふたり―――?」  話が違う。  幹也の話では鮮花が待っているという話だった。もうひとりいるなんて聞いていない。  私は近寄りながら少女達を観察した。  ふたりとも黒い長髪をストレートに背中におろしている。  顔立ちもわりと似ていて、どちらもお嬢様学園らしい落ち着いた理知的な美形だ。その印象は正反対だが。  鮮花の目は気丈で、何かに挑むような強さがある。清楚なお嬢様然としていても鮮花の芯の剛さは隠せない。幹也はその人徳から同級生に親しまられたが、鮮花はその厳しさから尊敬されるタイプだろう。  そんな鮮花の隣りにいる少女はあくまで弱々しい。  姿勢も凛としていて堂々としているのに、折れてしまいそうな弱さを感じさせる。 「鮮花」  彼女達のテーブルに近付いて呼びかけた。  鮮花は私に視線をよこすと、あからさまに眉をしかめる。 「両儀――式」  私の名を囁く声には微かな敵意が存在した。  刃のような敵意を隠しもしない。非の打ち所のない美少女然とした雰囲気は、この少女の装飾のようなものなのだ。 「私、兄さんと待ち合わせをしているんです。貴方に用なんてありません」  あくまで冷静を保ちつつ、鮮花は刺のある口調で言う。 「その兄さんから伝言。今日は来れないとさ。すっぽかされたぞ、おまえ」  鮮花が息を飲む。幹也に約束を反古された事がよっぽどショックだったのか。それともそれを報せにきたのが私だからか。 「式、あんたの仕業ね……!」  わなわな、と手を震わせる鮮花。  どうも私が来たという事のがショックだったようだ。 「馬鹿いうな、オレだって被害者だ。鮮花には会ってられないから追い返してくれ、なんて一方的な伝言を頼まれたんだからな」  火のような瞳で鮮花は睨んでくる。  このままほおっておけばコップを投げつけてきかねない鮮花を、傍らの少女がおさえつけた。 「黒桐さん、その、みなさんが驚いています」  線の細い声。  それに、私は一歩引いた。 「…そうだった。今日の用件はあんただものね、藤乃。私が怒る筋合いじゃなかった」  ごめん、と鮮花は藤乃と呼んだ少女に謝る。  私は大人しげな少女を見る。  むこうもこちらを見ていた。 「おまえ―――痛くないのか」  私は、つい、そう口にしていた。  少女は答えない。ただ私を見る。まるで風景でも眺めるような無関心さと、昆虫のような無機質さで。  私の中で二つの確信がうかぶ。  こいつが敵だという直感と、  そんな筈がないという実感が。 「…いや、おまえじゃない」  結局、私は実感を信じた。  この藤乃という少女に殺人を愉しむ事はできない。  なぜなら愉しむ理由がない。  いや、それ以上に少女の細腕で四人もの男の四肢を引きちぎるなんて事は不可能だ。私のように人間という正常な規格から外れてしまった目を持っているというのなら、話は違ってくるのだろうが。 私は少女から関心を失って鮮花へと声をかける。 「用件はそれだけ。何かあいつに伝言はあるか」 「"兄さん、早くこんな女と手をきってください"」  鮮花は本気で、そんな伝言を残した。                 …                 ◇ 「"兄さん、早くこんな女と手をきってください"」  式という和服の少女に、鮮花は真顔でそう言った。  ただ眺めあっているだけのこの二人の間には、どうとも語れない緊張感があって、わたしは気が気でいられない。  なんだか、互いの喉元に包丁をあてて、隙があるなら一気に引き抜こうとしているみたい。  空気が張り詰める雰囲気に、わたしは臆病になってしまう。こうなるとせめて騒ぎになるようなもめ事になりませんように、と祈るしかなかった。  幸い二人はそれきり言葉もなく、きれいな橙色の紬を着こなした少女は見惚れるほど流麗な足取りで去っていった。  わたしはその背中を瞳で追い続ける。  式という子は、話し方が男のひとのようだった。そのせいか年齢がはかれなかったけれど、もしかするとわたしと同い年なのかもしれない。  両儀という名字は、たぶんあの両儀じゃないだろうか。それならあの高級な紬も納得がいく。もともと紬は街着だけれど、あの子のは細かい部分の折り返しに今風の工夫がみられた。両儀の子なら自分専門の織物職人を持っていてもおかしくない。 「―――綺麗なひとでしたね」  わたしの独白に、鮮花はまあね、と答える。相手を嫌っていようと正直に答える鮮花は偉いとおもう。 「でも、それと同じぐらいに恐いひと。 ―――わたし、あのひと嫌いです」  鮮花が驚いている。彼女の驚きはもっともだ。わたしだってこの気持ちに困惑している。たぶん―――生まれて初めて、他人に反発心をもったから。 「意外ね。私、藤乃は誰も憎まない娘だと決めつけていたのに。私の認識もまだ甘いなぁ」 「憎い―――?」  …嫌いは憎いに繋がるんだ。わたし、そこまで大それた事は思っていない。ただ、あの人とは相容れられないと感じただけなのに。  わたしは瞼を閉じてみる。  両儀式。不吉すぎる漆黒の髪。不吉すぎる白純の肌。不吉すぎる底無の眼。  あの人はわたしを見ていた。  わたしもあの人を見てみた。  だからお互いの背中にある風景を見合ってしまった。  あの人にあるのは血だけ。自分から人を殺そうとする。自分から誰かを傷つけようとする。…あの人は殺人鬼だ。  けれどわたしは違う。違うと思う。  だってわたしは一度も、自分からやろうと思った事がないのだから。    視界を閉ざした眩病(クラヤミ)のなか、わたしは何度もそう訴えかける。けれどあの人の姿は消えてくれない。  …たった一度、言葉も交わしていないというのに・・・彼女の形はこの眼球に焼きついてしまったんだ。 「ごめんね、藤乃。せっかくの休みが台無しになって」  鮮花の声に瞼を開けた。  わたしは練習通りに微笑む。 「いいんです。今日はあまり乗り気ではなかったから」 「顔色悪いものね、藤乃。もとから白いんで解りづらいけど」  乗り気でないのは、本当は別の理由。けれど鮮花の言葉にわたしは頷いた。  …体の不調は反応が少し遅い事で分かっていたが、顔にでるぐらい悪いとは気がつかなかった。 「仕方ないな。幹也には私から頼んでみるから、今日はもう帰ろうか?」  鮮花はわたしの体を心配してくれる。  ありがとう、とわたしは答えた。 「けど、お兄さんへの伝言はあれでいいんですか?」 「いいの。あの伝言はこれで何度目か忘れてしまうぐらいだから、幹也も慣れているでしょう。  実をいうとね、これって呪いなの。飽きることなく繰り返された言葉は、現実をそちらよりに歪めてしまえる。ほんと、少女らしい一途な呪い。愚かで、どこか哀しいわ」  どこまで本気か分からないけど、彼女はそんな事を本気で説明してくれた。  彼女の突拍子のなさには慣れている。わたしは静かに鮮花の透き通った美声を聞くことにした。  …学園の中ではつねに首席、全国模試でも十位以内にはいる黒桐鮮花は、ちょっとヘンで紳士なところがある。  鮮花は礼園女学園でのわたしの友人の一人。  わたしも彼女も高校から学園に編入した。小学校からのエスカレーター方式である礼園では、わたし達のように高校から入ってくる者はめずらしい。  わたしと彼女はそういう縁がもとで知りあった。  休日はたまに二人で外出したりもする。今日はわたしのわがままで、彼女のお兄さんを通して人を探してもらう筈だったのだ。  わたしは地元の中学に通っていて、一年生の時の総体で他校の先輩に声をかけられたことがある。  …さいきん辛い事がおきて沈んでいたわたしは、その先輩を思い出す事で救われた。  それを鮮花に打ち明けると、なら本人を捜し出そう、と彼女は言った。彼女のお兄さんも地元の中学で、びっくりするぐらい交友関係が広いという。鮮花のお兄さんはわたし達ぐらいの年代の人探しは得意中の得意なのだそうだ。  …本当はそれほど会いたかったわけではないのだけれど、鮮花の勢いに断りきれず、わたしは先輩を探す事となった。  今日はその相談の為にお兄さんを待っていたのだが、あいにく来れないという。…それはそれでほっとした。  乗り気ではないのは、そう。わたしは、彼と二日前に偶然出会ってしまったんだ。  わたしはその時、三年前に言えなかった事を言えた。  目的はもう達してしまったから、探すこともしなくていい。鮮花のお兄さんがやってこれないのは、かみさまがちゃんと分かってくれているからかもしれない。 「出ようか。さすがに紅茶二杯で一時間は居ずらいや」  鮮花は立ち上がる。  お兄さんに会えず気を落しているだろうに、さらりと席をたつ自然さはとても優雅でほれぼれする。  彼女は時々、すごく男前だ。さっぱりした性格と口調のためだろう、丁寧な言葉遣いが今みたいにぬけ落ちて、男の人みたいに格好よくなる。  けれどそれは猫をかぶっているんじゃなくて、そういう部分も彼女の地。わたしはこの友人を、一番好ましく思う。  ………だから、会うのはこれで最後にしよう。 「鮮花、先に寮に帰っていて。わたしは今晩も実家に泊まりますから」 「そう? いいけど、あんまり外泊が多いとシスターに睨まれるわよ。なにごともほどほどにね」  ひらひらと手をふって鮮花も昏い喫茶店から去っていった。  わたしはひとりになって、ふと店の看板に視線を送る。  アーネンエルベ。ドイツ語で遺産という意味だった。                 …  鮮花と別れて、わたしはあてもなく歩き始めた。  実家に帰る、というのは嘘。  わたしにはもう帰るところはない。  二日前のあの夜から学校にも行っていない。  たぶん昨日の無断欠席で父のもとに連絡がいっているだろう。  家に帰れば何をしていたかと問い詰められる。わたしは嘘をつくのが苦手だから、何もかも喋ってしまうに違いない。  そうなれば―――父はきっとわたしを軽蔑する。  わたしは母さんの連れ子だ。父が必要としていたのは母と家の土地だけで、わたしは昔からおまけだった。だからこれ以上嫌われないように必死だったんだ。  母のような貞淑な女に、父が誇れるような優等生に、誰もが不審に思わないような普通の子に―――――― ――――ずっと、なりたかった。  誰かの為なんかではなく、わたし自身そのユメに焦がれて、守られてきた。  でも終わり。そんな魔法は、わたしの周りには何処を探したってないんだ。  わたしはだんだんと日が暮れていく街を歩き続ける。  無関係に通り過ぎていく人波と、無神経に点滅する信号の間をいくつも逍遥した。  わたしより幼いひと達も、わたしより老いたひと達も、みんな幸せそうだった。  ずきり、とココロが縮小する。  ふと、思い立って頬をつねってみた。  …何も感じない。  もっと強く捻る。  ……………何も。  あきらめて手を放すと、指の先が赤かった。爪が肉に食い込むまでつねってしまったらしい。  それでも、何も感じない。  生きてる、なんて感じない。 「ふふ…」  おかしくて笑ってしまう。  わたしは痛みを感じないのに、どうして心は痛いと感じるんだろう。  そもそもココロってなんだろう。傷ついているのは心臓なのか、それともわたしの脳なのか。  浅上藤乃という個人を攻撃する意味合いをもつ言葉を脳が受け取ると、それを防御する為に傷がつくんだ。傷がつけば、それが痛いとわかるから。わたしが思う反論も弁護も罵倒も、受けた傷を和らげる為に脳が作り出した薬でしかない。  だから痛みを知らないわたしも、  ココロの傷だけは痛みがわかる。  けれどそれは錯覚。  たぶんきっと錯覚なんだ。  本当の痛みは、決して言葉だけでは拭いされない。  ココロについた傷はすぐ忘れてしまう。ココロについた傷なんて些末だから。  けれど肉体についた傷は、傷があるかぎり痛み続ける。それはなんて強い、確固たる生の証なんだろう。  ココロが脳であるのなら、脳が傷ついてくれればいい。  そうすればわたしも痛みを手に入れられる。  わたしの今までの日々のように。  同い年か、それとも年下かの少年達に凌辱された記憶が、傷になってくれるなら。 ――――ああ、思い出してしまった。  彼らの笑い声とか、恐い顔とかを。  脅され、詰られ、犯され続けたわたしの時間を。  わたしの体に覆いかぶさった男がナイフを持って襲いかかってきた時。お腹が熱くなって、私の腹部の服は裂けて血に濡れていた。  刺されれると思った時、わたしは攻撃的だった。  彼らを済ませた後、わたしはその熱さが痛みなのだと実感したのだ。  もう一度、ココロが縮小した。  許せない、という発音がバラバラになるまで心の中で繰り返された。 「――――く」  がくん、と膝が嗤う。  またアレがやってきた。  お腹が熱い。見えない手に、わたしの中身が鷲掴みにされる不快感が。  吐き気がする。―――――いつもはそんなものはしない。  めまいがする。―――――いつもは唐突に意識が落ちる。  腕がしびれる。―――――いつもは目で見て確認する。  とても 痛い。―――――…ああ、生きている。  刺された傷が疼きだした。  治った筈の傷の痛みだけが、こうして突発的に蘇る。  とおいむかし、傷は治れば痛まないと母は言った。けどそれは嘘だ。ナイフに刺された私の傷は、こうして完治した後も痛みを残している。  …でも母さま。わたしはこの痛みが好きです。生きてるという感覚のなかったわたしにとって、これ以に上自分が生きている事実を思い知らせる事柄はないのですから。  この残留する痛覚だけは、決して錯覚じゃないんだから。 「早く、探さないと」  荒い呼吸でわたしは呟いた。  復讐をしないといけない。逃げてしまった少年の息の根を止めなければいけない。  とても厭だけれど、やらないとわたしが人殺しだと知られてしまう。せっかく痛みを手に入れたのに、そんなのは嫌だ。もっと生きているんだという快楽を感じたい。  わたしは歩くたびに痛む体を引きずって、以前の彼らの溜り場へと歩きだした。        腹部に残留した激痛に瞳が泪(ナミダ)する。  けど今は、その不自由ささえ愛しかった。              /3    鮮花と別れてから、私は一旦自分の部屋に戻った。  夜になって街に出る。  今日までで殺された人間の数は五人。  二日前の地下のバーで四人、トウコの話では昨日の夜に工事現場でさらに一人。先の四人はともかく、昨夜の被害者にあまり関連性は感じられない。  けれど、まったくの他人とも思えない。  夜の街で遊び歩く連中は顔見知りだけという程度なら幾らでもつながるんだ、と幹也が言っていた事もある。昨夜の死体も先の四人と友人である可能性のが高いだろう。 「あいつ―――」  ふいに、私は鮮花と一緒にいた女を思い出した。 ―――毛細血管のように体中に根付いた、死の気配。  まだ自分の目の扱いになれていない私は、前準備もなしにそれを視てしまった。  …アレは異常だ。ともすれば、この両儀式より突き抜けている。 なのに、あの少女は普通だった。  血の匂いもしたし、私と同じように自分が立っている境界が分かっていない目をしていた。  間違いなく獲物はあいつなのに、私は自信が持てないでいる。  だって、あの少女には理由がなかった。  自分のように殺人を愉しむ理由、殺人を愉しめる闇が。  殺人を愉しむ。それを求めている。  これを黒桐幹也が聞いたらどう思うだろう。  やっぱり、人殺しはいけない事だと私を叱るだろうか。 「罵迦」  ふん、と呆れてみた。  自分に対してか、それとも幹也に対してかはよく分からない。  黒桐幹也は、私は以前と変わらないと言った。  事故によって昏睡する前の私と、今の私は変わらないらしい。なら、以前の私もこんな風に夜の街を歩いたのだろうか。  …何か誰かと殺し合えないか、と求める異常者のように。 「――――」  いや、違う。  式にはそんな嗜好はなかった。あったけれど、それはあまり優先されなかった筈だ。  ではこれは織の感性だ。陰性、女性としての両儀式の中にいた陽性、男性としての両儀織の。  その事実にも、私は首をかしげてしまう。  かつての私には彼がいた。今はいない。いないという事は死んでしまったのだろう。  ならば――――殺人を求める意志は、間違いなく今の私から沸きあがる物に他ならない。  トウコの言うとおり、今回の事件は実に私向けだ。  無条件で人を殺せるのだというこの状況を、私は明らかに喜んでいるのだから。 ―――時刻はじき夜の十二時。    地下鉄を乗りついでめったに来ない駅についた。    不夜城めいた喧騒をみせるこの街からは、    遠くに大きな港が見える。                 ◇  鮮花と別れてから、わたしは行き先を変更した。  逃げてしまった残りひとりの行き先はしれない。けれど調べる方法はあると思う。  浅上藤乃と直接関係をもっていたのは済ませた四人と逃げたもうひとりだけだけど、わたしはよく彼らに遊び場に連れていかれた事がある。  そこに行って彼らの友人に話を聞けば、逃げてしまったもうひとりの居場所もわかるだろう。親元にも帰らず、学校にも警察にも頼ろうとしない彼らが頼るのは同類の仲間達だけだろうから。  わたしは熱いお腹を抱えながら、馴れない夜の街を歩く。  いかがわしい夜の遊び場にひとりで入っていくのには抵抗があったけれど、痛みと凌辱の記憶に苛(サイナ)まれる今のわたしには些末 なことでしかない。  三つ目の店で湊啓太の友人という人物に出会えた。  大きなビルをまるごとカラオケルームにした店でアルバイトをしていた彼は、なんだか厭な笑顔をこぼして、わたしに付き合ってくれると言った。  彼は店員の仕事を抜け出すと、ゆっくり話が出来る場所に行こうと歩きだす。  …この人の仲間達が愛用している溜り場に案内される事は、長い経験でわかっていた。  このひと達は弱い人間を的確に嗅ぎつける。愛想笑いだけはとても気前のいい彼は、わたしが汚しやすい相手と看破したんだ。  …きっと、わたしが湊啓太のグループに遊ばれていた事も聞いている。だからこうもたやすくわたしを連れ出す。  そこまで分かっているのに、わたしは彼の誘いを断らなかった。 私より幾らか年上の彼は、段々と淋しい通りへと進んでいく。  わたしはいっそう疼きだしたお腹を押さえて覚悟を決めた。 ―――時刻はじき夜の十二時。    繰り返し行なわれた凌辱を呪いながら彼と歩く。    不夜城めいた喧騒をみせるこの街からは、    遠くに大きな港が見えた。                 ◇  青年は自分の運の良さを実感していた。  湊啓太のグループがどこぞの女子校の生徒をまわしていた事は、それを誇らしげに語る啓太自身の口から聞いてしっていた。週に一度呼びつけてはやりたい放題をし、その自慢話をするのが啓太の習慣だったからである。  青年にとって、それはまったくの他人ごとだった。  啓太のグループとはあまり関わりあいはないし、根付いている区域も遠かった。だからいつも話半分で啓太の自慢話を聞いていたのだが、それがまさか自分のもとに転がり込んでくるとは。  据え膳食わずはなんとやらだ。彼はバイトをきりあげて藤乃を連れ出す事にした。 …別に青年はセックスの相手に不自由しているわけではなかった。 女を四五人でまわすなんてのは、彼らの中でもそう珍しいイベントではない。  青年が喜び、仲間達に連絡をいれない理由は別にある。  要は藤乃が浅上建設の令嬢だという事だ。彼女を辱めてその一部始終を公表すると脅せば、いくらでも金が引き出せるだろう。  啓太たちのグループはその手の事にはうとい。リーダー格の男があまり頭が良くなかったせいだろう。いや、それとも―――頭が良かったから金など必要なかったのか。  ま、そんなコトはどうでもいい。  とにかく青年は心踊らせていた。  報酬はひとりのが上前がいい、と青年は仲間達に連絡をいれなかった。  湊啓太を訊ねにきた少女――――浅上藤乃は無言でついてくる。  彼女を仲間達の溜り場につれていくのはまずい。青年は人気のない、港の倉庫街へ向かった。  夜も零時が近いということで、倉庫街には誰もいない。  同じように作られ、同じように区分けされた巨大なダンボール箱みたいな建物がひしめきあうここは、大きな工場の内部みたいな雰囲気だった。  街灯も少なく、倉庫と倉庫の間に入れば誰に咎められるコトもない。気になるといえば波の音と、遠くの海に見える建設中のブロードブリッジの明かりぐらいだろう。  藤乃をその闇に連込んで、ようやく青年は彼女に振り向いた。 「このへんでいいだろ。んで、聞きたい事ってなんだよ」  青年はとりあえず当初の目的・・・藤乃の質問に答えてやる事にする。いきなり襲いかかるのはスマートじゃない、というのが彼流の美学だった。 「―――はい。啓太さんが何処にいらっしゃるか、ご存じでないでしょうか」  藤乃はうつむいて、片手で腹部をおさえている。  顔は綺麗に切りそろえられた前髪に隠れて見えない。 「啓太はここんところ見ねえよ。あいつ自分のうちもねえから、人のアパートを渡り歩いてんだ。携帯電話もないし、連絡はとれないぜ」 「いえ―――連絡はとれるんです」 「は?」  顔を伏せたままの少女の言動はおかしい。  居場所がわからないのに、連絡はとれる?  もしかしてこの女、犯られすぎてイッちまってんのかね、と彼は内心で呟いた。それならそれでこの後は楽になるのだが、荒事になると計画していただけに拍子抜けしたのも事実だった。  まあいいか、と青年は気を取り直す。 「へえ、連絡とれるんだ。なら居場所を聞けばいいじゃない」 「それが―――啓太さん、わたしには隠れている場所を話したくないって。ですからわたし、こうして啓太さんのお友達を訪ねているんです。  知っていても知らなくてもいいですから、答えてください」 「おいおいおい、ちょっと待てよ。なんだよ、その隠れてるって。アイツなんかヤバイ事でもやったワケ?」  ますますおかしい少女の言動に彼は苛立った。  隠れている、って事は藤乃をレイプしていた事がバレたのか。いや、それならこの少女自身がやってはきまい。  青年は考える。しかし答えはでない。なぜなら、 ―――彼は、ニュースなど見ていなかった。 「ま、いっか。それよりさ、知っていても知らなくてもいいってどういうコトよ。もしかして、あんたも初めからその気だったってコト? 啓太のことなんかタテマエで、新しい男でも探しにきたとかさ!」  今までの愛想笑いではなく、本心から愉快になって彼は笑った。  本当に自分は運がいい。こりゃあ脅すまでもなく金にありつけそうだ。  それに―――浅上藤乃は、自分達では容易に手がだせないほどの美人でもある。高値の花と高嶺の花が両方手に入るのだ。これをツイてると言わずしてなんといおうか。 「悪りな、それなら初めからうちに連れ込むんだった。いやいや、それともこういう場所のがいいのかな、お嬢様は」  黒い制服をきた少女は、こくんと頷いた。 「その前に答えてください。啓太さんの居場所、知っているんですか」 「ばっか、そんな口実はもういいだろ。だいたいなあ、オレがあいつの居所なんか知ってるワケないっての」  そう、と少女は顔をあげた。  青年を見つめる瞳は尋常ではない。  螺旋を灯した彼女の琥珀の瞳には感情がなかった。 ――――正気では、ない。 「…?」  その狂気に気がつかない青年は、おかしな事態に遭遇した。  自分の腕が、かってに動いた。間接が曲がる。ほぼ九十度の角度まで肘が曲がったかと思うと、さらに間接は折れ曲がり―――  ついに、砕けた。 「ええ――――!?」  間の抜けた悲鳴。  青年の命運はここで尽きる。  たしかに彼は運が良かった。悪運も不運も、運というものの同胞には変わるまい。  月明かりも届かない路地裏で、惨劇が始まった。                 ◇ 「、、、、、、、、、!」  うめき声は、そんなケモノじみた発音にしかならない。  青年は両腕はすでに腕ではなかった。  まるで知恵の輪。それとも紙飛行機を飛ばす為に捻られたゴム。 ―――いずれ、二度と人の腕として機能はしまい。 「た、た、助け、て」  青年は目前に立っているだけの少女から逃げ出す。  とたん、彼の体はふわりと浮いて、右足が膝から千切れた。  びしゃり、とバケツの水を叩きつけるように血が迸る。  倉庫のコンクリート壁に跳ねたその跡は、なにかのアートのようでもあった。   ラン  浅上藤乃はそれを欄とした瞳で見つめ続ける。 「ね、捻れ、、捻れて、、、てテ、やが、る…!!!」  彼の言葉は、よく、わからない。  あたまがわるいせいだろう、と藤乃は無視する事にした。   マガ 「…凶れ」―――呟く。  それは何度めかの同じ発音。繰り返し繰り返す言葉は呪いになると彼女の友人は教えてくれた。  青年は地面に這いつくばり、首だけを動かしている。  両手は捻れて、右足はない。  足からの出血が地面を濡らす。  赤い絨毯みたいだ、と藤乃はそこに踏み込んだ。  靴が血に沈む。  夏の夜は暑い。ねばつく大気が肌にまとわりついて苦しくなる。 たちこめる血の薫りはそれに似ていた。 「――――あぁ」  芋虫みたいな青年を見下ろして、藤乃は吐息を洩らす。  なんて事を自分はしているのか、と自分が厭になった。  でも初めからこうするつもりだったんだ、とも思う。この人が地下のバーでの事件を知らないのは素振りでわかったけれど、それでもいずれは知ってしまう。その時湊啓太を探していた自分の事を、彼は不審に思うだろうから。  でも、これは仕方のない事だ。  彼も初めからその気だったし。  間接的になるけれど、これも浅上藤乃の復讐なのだ。自分を侵した者への反撃にすぎない。  ただそれが、彼らの他人を侵す能力と藤乃の他人を侵す能力に差がありすぎただけで。 「ごめんなさい――――わたし、こうしないといけないから」  青年の残った左足が千切れた。  それでかろうじて残っていた彼の意識も事切れた。  微動する青年の肉体を、藤乃はうつむいて見つめる。  今は、彼の気持ちがわかる。  今まではわからなかった。他人が痛がる仕草がどうしても理解できなかった。痛みを知った今の彼女は、青年の痛みを強く共感できていた。  それが嬉しい。生きていくという事は、痛んでいくという事だから。 「こうしてやっと―――わたしは人並みになれる」  自分の痛み。  他人の痛み。  彼をここまで追い詰めた自分。あの傷を与えたのが自分。  浅上藤乃が優れているということ。  これが生きているということ。  誰かを傷つけないと生きる愉しみを得られない、酷い自分。 「―――母さま。藤乃はこんな事までしないと、駄目な人間なんですか」   胸の中にわいた苛立ちが堪(コラ)えきれない。  心臓が早鐘をうつ。  背筋にむかでがはい上がっていくような悪寒――― 「わたし、人殺しなんかしたくないのに」 「そうでもないよ、おまえは」  突然の声に藤乃はふりかえる。  倉庫と倉庫の間であるこの路地裏の入り口に、着物姿の少女が立っていた。  静やかに月明かりを飲み込む港を背にして、  両儀式がそこにいる―――― 「式――――さん?」 「浅上藤乃。…なるほど、浅神に縁の者だったのか」  からん、と足音をたてて式が一歩だけ踏み込んだ。  倉庫裏に充満した血の匂いに、式は瞳を細める。それは嫌悪ではなく、むしろ悦び。 「いつから―――」  そこに、といいかけて藤乃はやめた。そんなことは聞くまでもない。 「ずっと。おまえがその肉片を誘い出すあたりから」  冷たい声に、藤乃はぞくりとした。  式は一部始終見ていた。  見ていたのに、出てきた。見ていたのに、止めなかった。こうなる事を知っていたくせに、ずっと見ていた…。 ―――このひとは、異常だ――― 「肉片だなんて言わないでください。このひとは人間です。人間の死体です」  心とは裏腹に、藤乃はそんな事を反論していた。  青年を肉片、と人間以下に貶める式の言葉があんまりだと思ったから。  式は頷く。 「ああ、人間は死体でも人間だ。心がなくなったぐらいで肉片にはなりさがらない。けど、それは人間の死じゃないだろ。人間はさ、そういう風には死なないよ」  からん、ともう一歩踏み込んでいく。 「人間らしい死を迎えなかったヤツは、もうひとじゃない。  頭がのこっていようが傷がなかろうが、おまえに殺されたヤツは常識では扱いきれないだろ。境界から外されたヤツは根こそぎ意味を剥脱されるんだ。だから、それはただの肉の集まりにすぎない」  唐突に―――藤乃はこの相手に反発心をもった。  式はこの青年の死体と、それを行なった自分が常識外のモノだと言っているのだ。                今、眉ひとつ動かさず惨劇を見つめているこの両儀式(少女)と同じように。 「…違います。わたしはまともです。あなたとは違う!」  何の根拠もなく、如何な理由もなく藤乃は叫んでいた。  式は微笑う。おかしそうに。 「オレ達は似たもの同士だよ、浅上」 「――――ふざけないで」  藤乃は式を凝視する。欄、と自分の瞳がとらえる映像が歪みはじめる。…子供の頃に持っていた"力"が行使される。  けれど、それは唐突に薄れていった。 「――――!?」  驚きは、けれど式と藤乃ふたりのものだ。  浅上藤乃は使えなくなった自分の"力"に。  両儀式はとたんに変わってしまった浅上藤乃に。 「またか―――おまえ、一体どうなってやがる」  式は怒った。台無しだ、とばかりに頭をかく。 「さっきまでのおまえなら殺してやったのに。喫茶店の時もそうだった。…もういい、白けた。今のおまえなんか知らない」  言って、式は踵を反して歩きだした。  足音が藤乃から遠ざかっていく。 「大人しく家に帰れ。そうすれば二度と会う事もない」  姿も、それで遠くなった。  藤乃は血だまりの中、ぼうと立ち尽くす。 ―――以前の自分に戻ってしまった。    また、何も感じない。  藤乃はもう一度、青年の死体を見下ろした。  さっきまでの感覚もない。罪の意識だけが脳を痺れさせる。  あとに残るのは、式が残した言葉だけだ。自分たちは同じ殺人鬼だよ、という告発めいた台詞だけ。 「違う―――わたしは、あなたなんかとは違う」  泣くように藤乃は呟いた。  事実、彼女は殺人を厭がっている。  この先、湊啓太を見つけだす為に同じ事を繰り返さないといけないのか、と思うと震えてくる。  人を殺してしまうなんて、許されるはずがないから。  それは彼女のまったくの本心。  …血だまりに映った彼女の口元は、小さく笑っていた。