伽藍の洞/ 1 蒼崎燈子が両儀式という人物の話を聞いたのは、ちょうど六月になったばかりの天気のいい昼下がりの事だった。 彼女が気紛れで雇った新入社員が両儀式の友人だったからである。 電灯のない事務所で煙草をくわえながら、橙子は暇つぶしのつもりで新入社員の話を聞いた。 話によると、両儀式という人物は二年前に交通事故にあってから昏睡状態におちいり、生命活動こそしているものの目が覚める見込みはまったくないのだそうだ。 それだけでなく、どうも肉体の成長も止まってしまっているという。生命活動をしているのに成長が止まっているなんて間違いを、橙子は初めは信じなかった。 「…ふぅん。成長しない生物は死んでるものなんだがね。いや、時間の圧力は死人にさえ影響をおよぼす。死体は腐敗という成長をとげて土に還るだろう。 動くクセに成長しないなんてのは、この間キミが稼働させてしまった自動人形(オートマタ)ぐらいのものだよ」 「でも本当なんです。式はあれから歳をとってるように見えない。彼女のような原因不明の昏睡状態って他に例はないんですか、橙子さん」 新入社員の問いに、橙子はふむ、と腕を組んだ。 「そうだな。あちらさんの国で有名なのがあるだろう。当時結婚したばかりの二十代の女性が昏睡におちいり、実に五十年もの歳月をこえて蘇生したという例だ。知らないか?」 橙子の言葉に、新入社員はいえ、と首をふった。 「あの、その人って目覚めた時はどうなっていたんですか」 「いたって正常だったそうだ。五十年の眠りなんて、それこそ無かったぐらいにな。彼女は二十代の心のままできちんと蘇生して、夫を悲しませた」 「───え? 悲しむって、なんでですか。奥さんが回復したんだから、それは喜ばしい 事じゃないですか」 「だからさ。心は二十代のままで肉体はもう七十才に成長してしまっていたんだ。昏睡している間にもね。生かすというのは劣化させるって事だから、こればかりは仕方あるまい。 そうして、七十才のご夫人は自分がまだ二十代のつもりで夫に遊びにいこうとせがむ事になる。夫のほうはちゃんと七十年生きてきたからそれでいい。問題は妻のほうだ。五十年という時間を知らないうちに使いきられた彼女は、どんなに言葉で説明してもその現実を認められない。嫌がって認めないんじゃなくて、本当に真実として認識できないんだ。 悲劇といえば悲劇だよ。皺だらけの体を背負って遊び場に行こうとする彼女を、夫は泣きながら止めたという。そしてこう思ったそうだ。こんな事なら目覚めなければかったのに、と。 どうだ? 夢物語のような悲劇はね、実はとうの昔に現実の物になっているのさ。参考になったか?」 橙子の言葉に、彼は神妙にうなだれた。 「おや、思い当る節でもあったか」 意地悪くにやつく橙子に、彼はかすかに頷いた。 「…えぇ、少し。ときどき思うんです。式は、自分から起きようとしないんじゃないかって」 「ワケありのようだな。よし、暇つぶしに話してみろ」 本当に暇つぶしの為に言う橙子に、彼は怒って顔をそむける。 「お断わりします。橙子さんの、そういう無神経なところって問題ありますよ」 「なんだ、話をふったのはそっちだろう。いいから話せ。私だって興味本意なわけじゃないんだ。鮮花のやつ、電話ぐちで毎回そのシキという名前を言ってね。どんな人間だったのか知らないと、返答のしようもないだろう?」 鮮花、という名前をだされて彼は眉をよせる。 「前から訊ねようと思ってたんですけどね。うちの妹と橙子さん、どこで知りあったんです?」 「一年前に旅先で。ちょっとした猟奇事件に巻き込まれた時に、不覚にも正体がばれてしまった」 「…まあいいですけど。鮮花は純真なんですから、あることないこと吹き込まないでくださいよ。あいつ、ただでさえ不安定な年ごろなんですから」 「鮮花が純真、ね。たしかにありゃあ純真かもしれない。ま、妹との確執は君の問題だから関与しないよ。それよりシキって子の話をしよう」 机に身を乗り出していう橙子に、彼はため息まじりに話だした。 両儀式という友人の性格と、その特異な人格の在り方を。 彼と両儀式は高校時代のクラスメイトだった。入学する前から両儀式という名前に縁があった彼は、彼女と同じクラスになった後に友人になった。あまり友人を作りたがらない両儀式にとって、親しくしていたのは彼だけだったという。 だが、彼らが高校一年生だった頃に起きた通り魔殺人事件から、両儀式は微妙に変わりだしてしまった。彼女は自分が二重人格者だという事、そしてもうひとつの人格が殺人を嗜好しているという事を彼に打ち明けたのだ。 実際、三年前の猟奇殺人に両儀式がどう関わっていたかは謎だ。それが明らかになる前に、彼女は彼の目前で事故にあって病院に運ばれた。 三月の初めの、冷たい雨が降る夜に。 そんな一連の話を、橙子は酒の肴程度にしか聞いていなかった。けれど話が深まるにつれ、彼女の表情から笑みが消えていった。 「───以上が僕と式の顛末です。もう、二年も前の話だけど」 「───それで成長が止まってるワケか。命のリザーブなんて、吸血鬼じゃあるまいし」 くっ、と唇の端をつりあげて橙子は笑った。 「それでさ、その子の名前ってどう書くんだ? きっと漢字で一文字だろ?」 「数式の式ですけど、それが何か?」 「式神の式、か。それで名字が両儀ときた。出来すぎだよ、それ」 くわえていた煙草を灰皿に押しつけると、橙子は我慢ならないとばかりに立ち上がる。 「病院は郊外だったっけ。興味がわいたから、少しだけ様子を見てくる」 返事をまたずに橙子は事務所を後にした。 まさかこんな所でそんな物に関わるなんて、なんて因果だと噛み締めながら。 ────────────────────────────── 2 両儀式が回復したのは、それから数日後の事となる。 親族でさえ容易に面会ができない状況は、とりもなおさず一般面会の不可能性を示していた。 そのせいだろう。 橙子が自分の部屋から隣りにある事務所に移動すると、新入社員の彼が人が変わったような陰欝さでこつこつとデスクワークに没頭しているのは。 「暗いな、どうにも」 「はい。電灯、いいかげんに購入しましょう」 橙子に視線も向けないで彼は答える。 真面目な人間が思い詰めると意外な奇行に走る場合がある。この青年もそのたぐいかな、と予想して橙子は声をかける事にした。 「そう思い詰めるな。今日あたり不法侵入しそうな気配だぞ、君」「無理ですよ。あそこの病院、研究所なみの警備システムなんですから」 さらりと返答するあたり、かなり詳しく警備システムとやらを調べあげているのだろう。 せっかくの新入社員を犯罪者にするわけにもいかないか、と橙子は肩をすくめた。 「黙っておこうと思ったんだが、仕方ないから教えてやる。 私ね、ちょっとした代打として今日からあの病院に勤める事になった。両儀式の近状にさぐりをいれてきてやるから、今は大人しくしていろ」 「─────え?」 「だから、医師として招かれている。いつもなら断る所だが今回は他人ごとではないのでね。君から無理やり話を聞き出した手前、これぐらいはしてやろうと思ったんだ」 つまらなそうに橙子はいう。 彼は机から立ち上がると、そのまま橙子へと歩きだして彼女の両手を握った。 ぶんぶん、とふたりの手が縦に動く。…それが感謝の意思表示なのだと判らず、橙子は難しい顔で彼の顔を眺めた。 「奇怪な趣味をしているな、キミ」 「うれしいんです。おどろきました、橙子さんにも人並みの優しさとか義理があったんですね!」 「……人並みにはないが、そういう事は口にしないほうがいいと思うぞ」 「いいんです、僕があさはかでした。あ、だから今日はスーツ姿なんですねっ。すごく格好いいです、似合ってます。見違えちゃいました、ええ!」 「…普段通りの服装なんだが、まあいい。世辞は受け取っておく」 何を言っても無駄か、と悟って橙子は会話を手早く切り上げた。 「そういうわけだから、あまり早まった行動はするな。ただでさえあの病院はおかしいんだ。君はここで留守番に専念する事。いいな?」 その言葉で、今まで舞い上がっていた彼はいつもどおりに落ち着いた。 「───おかしいって、あの病院がですか?」 「ああ。結界らしき物の前準備がほどこされている。私以外の魔術師が介入しているようだ。もっとも目的は両儀式ではあるまい。それなら二年間もほおってはおかないだろう」 あからさまな嘘だったが、堂々と言い切ったので彼は疑いもしなかった。 「…えっと。結界って、このビルの二階みたいなヤツですよね?」 「ああ。結界とはレベル差こそあれ、一定の区間を隔離するものをいう。本当に壁を作ってしまうものから、見えない壁で覆ってしまうものもある。一番上等なのはきちんとここに在るのに誰も近寄らない、という強制暗示。 このビルと一緒だ。ここに来る目的がない者には意識できない、という暗示なら、誰にも気付かれずに結界であり続けられる。 派手に異界をかたどって周囲に異常をしらしめる結界なんていうのはね、下の下の仕事だよ」 異常を気づかせない異常、それが彼女の工房の守り。地図にあって誰もが見落としてしまう"力"。卓越した魔術師が巣くう世界とは、何げない隣の家めいたものなのだ。 だが───その結界を、この新入社員は無意識に破った。蒼崎燈子という人物を知って いなければ見付けだせないこのビルを、彼はいともたやすく発見してしまったのである。 まあ、そのあたりが彼女が彼を雇った理由でもあるのだが。 「…それで、病院の結界って危ない物なんですか?」 「人の話を聞けというんだ。結界自体に害はないよ。もともとは仏教用語だぞ、結界という単語は。 アレはあくまで外界と聖域を隔離するものなんだ。いつからか魔術師が身を護る術の総称になってしまったがね。 いいか、さっきも言ったが一番上等な結界は一般人に異常と思わせない"無意識下にうったえる強制観念"なんだ。一番高等なのは空間遮断になるんだが、そこまでいくと魔術師ではなく魔法使いの業になる。現在、この国に魔法使いは一人しかいないから、まずそんな結界は作られないよ。 しかし、あの病院にはられた結界はかなり巧い。私も初めは気がつかなかったぐらいだ。知人に結界作りのエキスパートがいたが、そいつと同格の作り手かな。 まあ結界作りの専門家には哲学者が多い。連中は斬ったはったにはうといから、まず安心していいだろう。」 …そう、結界自体に危険はない。 問題は外界と遮断した世界で何を行なうか、という事だ。 あの病院の結界は外ではなく内に向いていた。すなわち、院内でどのような出来事がおきても誰も気がつかない、というたぐいの。例えば深夜に病室の一つが爆発しても、誰ひとりとして目をさます事はないだろう。 橙子はその事実を口にしない。そろそろ時間だ、と時計に視線をなげて歩きだした。 細いその背中に彼の声がかかる。 「橙子さん。式の事、よろしくお願いします」 ああ、と橙子は手のひらをひらひらさせて答えた。振り返りもしない彼女に、彼はもう一つの些細な疑問を投げかけた。 「そうだ。その、知り合いのエキスパートって誰ですか?」 ぴたり、と橙子の足が止まる。 彼女はしばし考え込んでから、くるりと振り返って答えた。 「そりゃあおまえ。結界の専門家っていえば、坊主に相場が決まってるだろ」 ────────────────────────────── 3 橙子が臨時の医師として病院に招かれてから六日ほど経過した。 日に日に回復にむかっているという両儀式の吉報を彼に届けるたびに、橙子はある種の不安を持たずにはいられなかった。 すなわち、現在の両儀式と過去の両儀式が他人にとって同一のものなのか、という事を。 ◇ 「日に二回のリハビリテーションと脳波のチェックが彼女の日課らしい。退院の日ぐらいは面会もできるだろうから、もうしばらく我慢だな」 病院から帰ってきた橙子は、オレンジ色のネクタイを緩めながら机に腰かける。 夏をまじかに控えた夕方。 夕日の赤が、電灯のない事務所の内部を深紅に染め上げていた。 「一日二回のリハビリって、それだけでいいんですか? 二年間も眠ったままだったんですよ、式は」 「患者が眠っていても毎日関節は動かしてたんだろう。それにリハビリは運動じゃないんだ。日に五分もやれば上等だよ。そもそも、リハビリテーションっていうのは医学用語じゃないぞ。あれはね、人間としての尊厳の回復という意味なんだ。だから今まで寝たきりだった両儀式が自身を人間なのだと実感できればそれでいい。 身体の回復は、また別の話」 そこで一息いれて、橙子は煙草に火をつける。 「だがな。問題は身体面ではなく精神面だ。あの子は、以前の両儀式ではなくなっている」 「───記憶喪失、ですか」 覚悟していたのか、彼は恐る恐るそんな罵迦げた事を言った。 「うん、どうだろう。人格自体は以前のままだとは思う。両儀式自身に変化はない。変化があったのは式のほうでね。 …君にはショックな話かもしれんな」 「そんなの、今までで慣れました。詳しく説明してください。 式は…その、どうなってるんですか?」 「ああ。率直に言うとね、彼女は空っぽなんだ。 今まで内にもう一人の自分を抱えていた式。けれど織はもういない。いや、彼女には自分が式であったか織であったかさえあやふやだろう。 目覚めた彼女の中には、織がなかった。それが失われた事により彼女の心の中は空白になってしまったんだ。 おそらく───あの子は、その空隙に耐えられない。 …胸が空いているんだ。穴のように、足りていない。空気さえ風のように通り過ぎる」 「織がいないって───どうして」 「式の身代わりになったからだろ。 とにかく、二年前の事故の時に両儀式は死んだんだ。なまじ生きているから勘違いしてしまうが、死んだものと仮定してみろ。 両儀式は新しい人間として両儀式の肉体に再生した。今の式にとって、過去の式、そしてそれによって派生している現在の式は他人にすぎない。 誰だって他人の歴史は実感できない。たぶん、あの子は今も自分が自分でない感覚のままで夜を過ごしているだろう」 「…他人って。それじゃ式は以前の事は覚えていないんですか?」 「いや、覚えてるよ。今の彼女は間違いなく君の知っている式だろう。彼女が生き延びられたのは、式と織という個別にして同格の人格を持っていたからだ。 両儀式が事故によって精神死した。その時に死ぬ役をかって出たのが織とする。それで彼女は死亡したわけだが、まだ脳内には式が残っているんだ。 結果、精神死にはならない。式は両儀式が死んでしまったという事実の為に眠り続けてしまっていたが、死んだのは織だから彼女は生きていた。だから───二年間も昏睡していたんだろうし、生命活動はあるのに成長しなかった。 『死んでいる』のに『生きていた』からさ。 しかし、蘇生した彼女は以前の式とは細部が違う。記憶喪失、というほどでもないが、必要時でなければかつての記憶を思い出したりはしないだろうね。 他人とも別人ともいえないが、今の彼女は今までの式とは違うんだ。式と織という人格が混ざり会った第三の人格とでも受けとめておけばよかろう」 …だが、本当はそんな事にはなりえない。 式が両儀である以上、半身である織と溶け合う事もないし、織が欠けた空白を式ひとりで埋める事もできないのだから。 その事実を口にせず、橙子は話を続ける。 「だが、たとえ彼女がまったくの他人として再生しても、彼女は両儀式だ。 どんなに自身に実感が持てなくても───あの子はやっぱり両儀式なんだよ。今はま だ生の実感さえ掴めていないだろうが、いずれ彼女も自身を式なのだと認識できる時がくる。薔薇は薔薇として生まれるんだ。育った土と水が変わっただけで違う花にはなりはしない」 だからそんな事で悩みこむな、と彼女は呟くように付け足した。 「結局、空いた穴は何かで埋めるしかないんだ。 彼女は記憶ではなく、今を積み重ねて新しい自分を形成していくしかない。それは誰も手をかせない伽藍作りだ。他人が手をはさめる事じゃない。 ようするに、君は今までどおりに彼女に接すればいいだけさ。 あの子の退院、近いそうだよ」 吸いきった煙草を窓の外にほおって、橙子は両手をあげて背筋をのばした。 ばきばきと豪快に骨がなる。 「まったく、慣れない事はするもんじゃないな。煙草がまずくて仕方がない」 誰に言うでもなく、長く息をはきながら彼女は言った。