殺人考察(前)/                     1 「幹也、おまえ両儀と付き合ってるってホント?」  学人(ガクト)の言葉に、僕はあやうくコーヒー牛乳をぶっ かけそうになった。  咳き込みながら周りを見てみる。  昼休みの教室は騒がしく、幸い今の学人の暴言を聞き付けた奴はいそうにない。 「学人、それ、どういう意味?」  探りをいれてみると、学人は呆れたように目を開いた。 「おまえなにいってんのよ。1−Cの黒桐が両儀に入れ込んでるってのは周知の事実だ ぜ。知らぬは当人達だけだ」  学人の悪態に、僕はたぶん眉をしかめたと思う。  式と知り合って七ヵ月。季節は冬をまじかにした十一月になった。  …まあ確かに、それだけあれば付き合っていてもおかしくはないと思うんだけど。 「学人、それは誤報だよ。僕と式はただの友達。それ以上の関係じゃない」 「そうかぁ?」  柔道部期待のホープは、その屈強な顔を意地悪げに歪めた。  学人という名前とは正反対の肉体派の友人とは小学校からの腐れ縁だ。その経験から こっちの言葉に嘘がないと読み取ってくれたのだろう。 「に、しては名前を呼び捨てじゃんか、おまえ。あの両儀がただのクラスメイトにそん なん許すはずねーだろが」 「あのね、式はそっちのほうが嫌がるよ。  前に両儀さんって呼んだら、思いっきり睨まれた。視線で人を殺すっていうけど、式 はその素質ありまくりだ。  でさ。なんでだか知らないけど、彼女は名字で呼ばれるの好きじゃないんだって。名 字で呼ぶのなら"おまえ"でいい、なんて言うんだぜ。それは僕のほうがイヤだから、 妥協案として"式さん"になったんだけど、それもイヤだっていうから"式"。どうだ、このつまらない真相は」  四月の出来事を思い出してまくしたてると、学人はそりゃつまらん、と同意してくれ た。 「なるほどね。なんとも色気のないお話で」  残念そうに学人はぼやく。…何を期待しているんだろうか、こいつは。 「じゃあ先週の昇降口の一件もなんでもないのか。くそ、2−Cくんだりまで来て損し たぜ。大人しく自分の教室でメシ食ってりゃよかった」 「……待った。なんで君がそんな事知ってるんだ」 「だから有名だって言ったろ。先週の土曜、おまえと両儀が下駄箱で雨宿りしてたって 話は今日の朝だけで知れ渡ってる。相手が両儀だからな、こんなつまらない事でも話題 性は溢れてるってわけだ」  はあ、と僕は天を仰いだ。  せめてこの話が式の耳に届かない事を祈るだけだ。 「ここって進学校なんだよな。ちょっと不安になってきた」 「先輩の話じゃ就職率はいいってよ」  …ますますこの私立高の在り方に疑問を深めてしまう。 「しっかしなんだよなあ。なんだって両儀なんだよ、おまえ。どう見たってイメージ合 わねえだろ」  似たような事は先輩にも言われた気がする。  それは自分にはもっと大人しい子が合っているのに、という意見だったけれど、これ もまた同じ意味なんだろう。  …なんだか、頭にきた。 「式はそう、おっかない子じゃないよ」  つい、尖った声で口にしてしまった。  学人がにやりと笑う。…尻尾を出したな、というその露骨な笑い顔。 「誰が友達以外の何者でもない、だ。ありゃあ剛い女だぜ、間違いなくな。それが判ら ないってこたぁ、もういかれてるって証拠じゃねえの?」  こわい、とは硬いという意味なんだろう。  たぶんそれはその通りなんだろうけど、学人の言葉に頷くのは癪だった。 「そんなの、分かってる」 「んじゃどこかいいんだ。見てくれか?」  …学人の言葉には遠慮がない。  たしかに式は美人だ。  けれどそんな事ではなく、彼女は僕の気を引く。  式はいつも怪我をしそうな感じだった。  実際は怪我も傷も負わないぐらいしっかりしているんだけど、いつも、いつも怪我を してしまいそうな危うさがある。  それが、たぶん放っておけない。  あの子が傷つく姿なんて見たくはない。 「学人は知らないだけだ。式だって可愛いところはある。 …そうだな、動物に例えるならうさぎになるぐらい可愛いよ」  …自分で言って、ちょっと後悔した。 「馬鹿いうな、ありゃあ猫科だって。それとも猛禽のたぐいかね。兎は遠いね、遠すぎ る。両儀が淋しいからって死ぬタマかよ」  学人は大笑いする。  でも、あの人に懐かない所とか、遠くからこっちをじーと見ている姿は似ていると思 う。…ふん、それが僕一人の錯覚だというのなら、それはそれで望むところだ。 「もういい。学人とは今後一切女の子の話はしないからな」  絶縁状を叩きつけると、学人は悪い悪い、と笑うのをやめた。 「そうかもな。案外、うさぎもあってるぜ」 「学人。あからさまな同意は嫌味だよ」 「そうじゃねえよ。うさぎだって無害じゃないなって思い出した。世の中にゃ、こっち の運が悪ければ一撃で首を切り落とす兎だっているんだぜ」  真顔で言われて、少しだけ咳き込んだ。 「なんだか、すごくデタラメな兎だね、そいつ」  学人はおう、と頷く。 「そりゃあ出鱈目さ。こいつはゲームの話だからな」                     2  二学期の期末試験が終わったその日、僕は信じられない物を見た。  自分の机の中に手紙が入っていたのだ。いや、そんな出来事自体に不思議はない。問 題はその差出人と内容で、ぶっちゃけて言うと式からデートの誘いだった。  それは明日の休みに遊びにつれていけ、という脅迫状みたいな内容で、僕は混乱した まま家に帰り、なんだか切腹を申し付けられた侍みたいな心持ちで夜明けを待つ事とな った。 「よ、コクトー」  やってきた式の第一声がこれだった。  待ち合わせ場所の犬の像がある駅前にやってきた式の服装…枯葉色の着物に真っ赤な 皮ジャン、という出で立ちに驚くより先に、その言葉遣いに僕はくらりとした。 「待ったか。悪いな、秋隆をまくのに手間がかかりすぎた」  さも当然のように彼女はすらすらと言葉を紡ぐ。  僕の知っている式ではない、男そのものの口調で。  何も答えられず、僕はただ彼女の姿を再確認した。  式の姿に変化はない。  小柄な体は、けれど凛とした背筋や仕草のせいか形容しがたい迫力…雅びさがある。 躍動する活人形のようなアンバランスさだ。ちなみに活人形とはからくり人形を二分す る、外見のみを精工に磨き上げたものをいう。 「なんだ、一時間程度の遅刻で怒ってるのか。あんがい狭量だな、おまえ」  黒い瞳で、式はこちらをのぞき見る。  乱暴に切り取られた、ショートカットの綺麗な黒髪。  小さい顔に大きな瞳は、そのどちらも流麗な輪郭をしている。  墨を流したかのような黒色の瞳は、黒桐幹也の姿を映しながらももっと遠くを見つめ ているようだ。  …思えば。初めてあったあの雪の日から、僕はこの遠くを見据える瞳に惹かれていた。 「え…っと、式…だよね、君」  ああ、と式は笑った。口元の端をつりあげる、どこか不敵な形で。 「それ以外の何に見えるんだ。そんな事より時間がもったいない。さ、連れていってく れ。何処に行くかはコクトーに任せる」  言って、式は強引のこちらの腕を取ると歩きだした。  …任せる、なんて言っておきながら結局のところ彼女が先導している事に、混乱して いる僕が気がつく筈もなかった。  とにかく色々と歩き回った。  式はあまり買物はせず、デパート内の様々な店に入っては商品を見て周り、飽きると 次の店へと移動する。  映画とか喫茶店で一息いれよう、という意見は却下された。…たしかに、こっちも今 の式とそういう所にいっても面白くない。  式はよく喋った。  僕の勘違いでなければ、彼女は精神的にかなり高揚しているようだった。ハイになっ てる、という状況だろう。  見てまわる店の大半は洋服関係だったけれど、その全てが女性専門店だという事に僕 は少しだけホッとした。  四時間ばかりで四つのデパートを征服すると流石に疲れたのか、式は食事がしたいと 言い出した。  右往左往して、結局ファーストフードに落ち着いた。  席につくと式は上着を脱ぐ。  場違いな着物姿の式に周囲の注目が集まるが、本人はまったく気にしていないようだ った。  意を決して、僕はさっきからの疑問を問い詰める。 「式。君、普段はそういう言葉遣いなのか」 「オレの時はな。でも言葉遣いに意味なんてないだろ。こんなの、コクトーだって変え られるじゃないか」  ぱくぱくと不味そうにハンバーガーを飲み込む式。 「ま、こういう事は今までなかったんだ。今日が初めてだよ、表に出てみたのは。今ま では式と同じ意見だから黙ってたけどな」  …まったく意味がわからない。 「そうだな…分かりやすく言うと二重人格って奴か。  オレが織で、普段のほうが式。織は織物の織。  ただオレと式は別人じゃない。両儀式はつねに一人だ。オレと式の違いは、たんに物 事の優先順位が違うだけ。好きなものの順位がズレてるだけだと思う」  言いながら、彼女は濡らした指でウェットペーパーに文字を書く。  細く白い指が、織と式という同じ発音の文字を作った。 「オレはコクトーと話してみたかった。それだけだ。式にとってそれは一番したい事じ ゃないから、オレが代わりにやってやってる。わかった?」 「まあ、言っている事は、なんとか」  心許なく返答する。  けれど、彼女の言っている事は実はかなり実感してもいたのだ。  二重人格うんぬんに関しては、実は思い当る節があったからだ。僕は以前、入学する 前に式と会っている。けれど彼女はそれを知らないと言った。  あの時は嫌われているから、と思ったけれど、それなら納得がいく。  いや、そんな事より。こうして半日過ごしてみて、彼女はやっぱり式以外の何者でも ない。式…いや、織が言うとおり口調が違うだけで、その行動自体は式のそれと同じな のだ。話し方で感じていた違和感は、いまでは感じていないぐらいに。 「けど、なんでそれを僕に言うんだ」 「隠し通せなくなりそうだったから」  すました顔で式はジュースを飲む。  彼女はストローに口をつけて、すぐに離れた。…式は冷たい物が苦手なのだ。 「白状するとさ、オレは式の破壊衝動みたいなもんなんだ。 それが一番やりたい感情。だけど、今まではその相手がいなかった。両儀式は、誰にも 関心がなかったから」  淡々と織は言う。  その黒い、深すぎる瞳に見据えられて、僕は動くことが出来なかった。 「ああ、でも安心してくれ。こうして話をしているオレはそれでも式だ。式の意見をオ レが口にしてるだけだから、暴れだしたりはしないぜ。言っただろ、口調が違うだけだ って。  …でもまあ、ここんところオレとアイツはズレてるからな。こっちの言う事は話半分 に聞いておいてくれ」 「…ズレてるって…その、君と式の間で言い争いとかしたりするの?」 「あのな。どうやって自分と言い争いが出来るんだ。  どんな事をやったにしても、それはどっちもどこかで望んでいる事なんだ。だからお 互いに文句はない。  どう足掻いたって肉体の使用権は式のものだ。オレがこうしてコクトーと会っている のも、式が会ってもいいと思ったからだぞ。  …ま、こんな事を言っちまうと後になって後悔するんだけどな。コクトーに会っても いい、なんて式が口にする台詞じゃないだろ?」  そうだね、と間髪入れずに頷いてしまった。  織はおかしげに笑う。 「オレ、おまえのそういう所がいいと思う。けど式はそういうのが厭なんだ。ズレって いうのは、こういう事」  …? それはどういう事だろう。  式は僕の考えなしの所が厭なんだろうか。  それとも、それをいいと思う式が厭なんだろうか。  確証はないのに、僕はそれが後者なのだと感じ取った。 「これで説明は終り。今日はここまで」  唐突に立ち上がって、織は上着を羽織った。 「じゃあな。オレはおまえの事が気に入ったから、近いうちにまた会うよ」  皮ジャンのポケットからハンバーガー代をテーブルに置くと、織という名をした式は 颯爽と自動ドアの向こうに行ってしまった。  織と別れて自分の街に帰ってくると、もう日は沈んでしまっていた。例の通り魔殺人 のおかげで、夕方でも人通りは少なくなっている。  家に帰ると従兄の大輔兄さんがやってきていた。  織との一件で疲れきっていたせいか、挨拶もおざなりにしてこたつに足をいれて、横 になる。  大輔兄さんもこたつに足を延ばしていて、狭い空間に足を置く支配権をめぐってしば らくの間無言で戦った。  結果、僕は寝そべる事ができなくなって腰をあげる事となる。 「忙しいんじゃないの、大輔さん」  テーブルの上のみかんを手に取りながら話かけると、大輔兄さんはまあな、とやる気 なく答えてきた。 「ここ三ヵ月で五人だぜ、そりゃあ忙しいさ。うちに帰る暇がないから兄貴んところで 休んでるんだ。あと一時間もしたら出るよ」  大輔兄さんは警視庁捜査一課の刑事なんて事をやってる。怠け者を公言して憚らない この人が、どうしてそんな不向きな仕事についているかは謎だった。 「捜査は進んでる?」 「ぼちぼちな。今までなんの手がかりもなかったが、五人目でやっと足を出してくれた。まあ、かなり作為的ではあるんだがね」  そこまで口にして、大輔兄さんはこたつの上に寝そべるように顔を突き出した。  目の前に兄の真剣な顔がある。 「こっから先は部外秘だぞ。オマエも無関係じゃないから教えておく。一人目の死体状 況は教えたよな」  そうして大輔兄さんは二人目、三人目と次々と死体の状況を話し始めた。…全国の刑 事さんがこんな口の軽い人でない事を祈りつつ、話に耳をかたむける。  二人目は体を縦に、股下から脳天まで真っ二つ。凶器は不明。半分にわけた死体の片 方だけが壁にぴたりと張りつけにされていた。  三人目は両手両足を切って、足に手を、手には足をと縫い付けてあったという。  四人目は体をバラバラにして何か文字らしき物を印してあり、五人目は首を中心に手 足で卍を象っていたらしい。 「なんて分かりやすい異常者だ」  吐きそうになりながら感想を言うと、ああ、と大輔兄さんは同意した。 「分かりやすすぎるってのも作為的なんだけどな。幹也、おまえはどう思う?」 「…そうだね、いずれも刺殺である事に意味はないと思う。それ以外はわからないよ。 ただ…」 「ただ?」 「手慣れてきたな、って。次あたりは外じゃないかも」  だよなぁ、と兄は頭を抱えた。 「動機がなく、法則性もない。今は外だけだが、こいつは家に押し入ってくるタイプだ。夜に出歩く獲物がなくなれば、余計にその色が強くなる。その辺を上の連中も覚悟して くれればいいんだがねぇ」  でな、と兄は話をかえる。 「五人目の現場にな、こんな物が落ちてた」  大輔兄さんがこたつの上に置いた物は、うちの学校の高章だった。私服高ゆえに軽視 されがちだが、登校時はどこかに着用が義務付けられている。 「現場が草むらだったから犯人が気がつかなかったのか、それともわざと落としたかは 解らん。だが、どちらにせよ意味はある筈だ。近いうちそっちに行く事になるかもしれ んぞ」  最後に刑事の顔をして、兄は不吉な事を言った。                     3  高校一年の冬休みはあっけなく終わった。  その間にあった事といえば織と初詣に行ったぐらいで、あとは平穏無事な毎日を送っ ていたと思う。  三学期が始まると、式はその孤立をより強くしていた。 彼女は僕にもわかるほど、 周囲に拒絶の意志を示していたからだ。  みんなが下校したのを確かめて放課後の教室に行くと、決まって織が待っていた。  彼女は何をするでもなく、窓際で外を眺めている。  僕は呼ばれたわけでもないし、誘われたわけでもない。ただ、やっぱりいつも怪我を しそうなこの女の子がほおっておけなくて、意味もなく彼女に付き合う事にしていた。  冬の日没は早く、教室は夕日で真っ赤だ。  その、赤と黒のコンストラクトだけの教室で、織は窓にもたれかかっている。 「オレが人間嫌いだって話、したっけ」  この日、心あらずといった風情で織は話し始めた。 「初耳だけど。……そうなの?」 「うん。式は人間嫌いなんだ。子供の頃からそう。  …ほら、子供の頃ってさ、何も知らないじゃない。会う人全部、世界の全てが無条件 で自分を愛していると思ってるんだ。自分が好きなんだから、相手も当然のように自分 を好いてくれるって、それが常識になってるだろ」 「そういえばそうだね。子供の頃は疑う事をしなかった。たしかに無条件でみんなが好 きだったし、好かれているのが当たり前だと思ってた。怖いものだってお化けだったも んな。今怖いのは人間だっていうのに」  まったく、と頷く織。 「でもさ、それはすごく大事な事なんだ。無知でいる事は必要なんだよ、コクトー。  子供の頃は自分しか見えないから、他人のどんな悪意だって気付きはしない。たとえ 勘違いだとしても、愛されてるっていう実感が経験になって、誰かに優しくできるよう になるんだ。  人は、自分が持っている感情しか表せないから」  夕焼けの赤色が、式の横顔を染める。  この時・・・彼女がどちらのシキなのか、僕には判別が つかなかった。そして、それは意味のない事でもある。  どちらであろうと、これは両儀式の独白なのだから。 「でもオレは違う。生まれた時から、他人を知ってた。  式は自らに織を持っていたから、他人を知ってしまった。自分以外の人間がいて、色 々と物を考えていて、自分を無条件で愛してくれているワケじゃないと知ってしまった んだ。  子供の頃に他人がどんなに醜いか知った式は、彼らを愛する事ができなかった。いつ しか関心ももたなくなった。  式が持つ感情は拒絶だけだ」 ・・・だから、人間嫌いになった。  そう織が眼差しで語る。  …僕は、理由もなく泣きたくなった。 「でも、それじゃ淋しかったんじゃないか」 「なんで? 式にはオレがいるんだ。一人じゃ確かに孤独だけど、式は一人じゃない。 孤立していたけど、孤独ではなかったんだ」  毅然とした顔で織は言う。  そこには強がりもなにもなくて、彼女は本当にそれで満足だったのだ。  でも、本当に…?  けど、本当に…?         オレ 「だが、最近の式はおかしい。自らに自分という異常者を抱えているのに、それを否定 したがってる。否定はオレの領分だ。式は肯定しかできない筈なんだけどね」  どうしてかな、と織は笑う。  ひどく殺伐とした・・・殺意さえ感じる笑みだった。 「コクトー。人を殺したいと思った事はある?」  その時。落ちる陽の光が朱に見えて、どきりとした。 「今のところはないよ。殴ってやりたい、あたりが関の山」 「そう。けど、オレはそれしかない」  教室に、彼女の声はよく響いた。 「・・・・・え?」 「言っただろ。人間ってのは自分が体験した感情しか表せないって。  オレは式の中では禁句を請け負ってる。式の優先順位の下位が、オレにとっての上位 なんだ。それに不満はないし、だから自分がいるって解ってる。オレは式の抑圧された 指向を受け持つ人格だ。  だから、つねに意志を殺してきた。織という闇を殺してきた。自分で自分を、何度も 何度も殺してきた。  ほら、オレが体験した事のある感情は殺人だけだろう?」  そして、彼女は窓際から離れた。  足音もなくこちらに近付いてくる彼女を・・・どうして、怖いと感じたのだろう。 「だからさ、コクトー。式の殺人の定義はね」  耳元に囁く声。 「自分を守る為に、式の蓋を開けようとするモノを除外するって事なんだ」  くすり、と笑って織は教室を後にする。  それは悪戯をした時のような、無邪気で小さな笑みだった。  翌日の昼休み。  ご飯を一緒に食べよう、と式に声をかけると、彼女は心底驚いたような顔をした。  この時彼女は知り合ってから初めて、僕に驚きの表情をみせた。 「…なんて、こと」  そう声をつまらせて、式はこっちの提案を受け入れてくれた。場所は彼女の希望で屋 上となり、式は無言で僕の後に付いてくる。  じっと黙り込んでいる式の視線が背中にささる。  もしかすると怒っているのかもしれない。いや、きっとそうだろう。  …そりゃあ、僕だって昨日の織の残した言葉の意味ぐらいわかる。アレはもう自分に 関わるな、関わると何をするか解らないぞ、という式からの最後通告だ。  けど式はわかってない。  そんなのはいつも式が無意識に提示している事で、こっちはそんなのにはもう慣れて しまっていたんだ。  屋上に出ると、そこには誰もいなかった。  一月の寒空の下、昼食を食べようというのは僕ら以外にはいないらしい。 「やっぱり冷えるな。場所を変えようか」 「私はここがいいの。変えるなら黒桐くんだけでどうぞ」  慇懃な式の言葉に首をすくめる。  僕らは寒風からさけるように壁ぎわに座った。  式は買ってきたパンの封を開けもせずに座っている。そんな式とは裏腹に、僕はすで に二つ目のカツサンドを頬張っていた。 「なぜ私に話かけたの?」  式の囁きは前触れがなく、よく聞き取れなかった。 「何かいった、式?」 「…どうして黒桐くんはそんなに能天気なのかしら、と言ったのよ」  刺すような目で式はあんまりな事を言う。 「ひどいな。たしかに馬鹿正直なんて言われるけど、能天気なんて言われた事はなかっ たぞ」 「周りが遠慮してたのね、きっと」  なるほど、と勝手に納得して式は玉子サンドの封をあけた。ビニールのこすれる音は、寒い屋上に似合っていた。  式はそれきり黙り込み、無駄のない動きでサンドをかじり始める。  ちょうど入れ代わりで食べおわってしまったこちらとしては、どうも所在ない。  食事には、やはり弾むような会話が必要だろう。 「式。君、すこし怒ってるね」 「…少し?」  じろり、と睨まれた。…話かけるにしても、話題に注意するべきだったと反省する。 「よくわからない。けど、黒桐くんがいると苛立つわ。  どうしてあなたは私に関わってくるのか、  どうして織にあそこまで言われたのに昨日と態度が変わらないのか。  理由、わからないもの」 「理由なんて僕にもわからない。式といると楽しいけど、どうして楽しいのって聞かれ たら答えられないし。  まあ…昨日のことを言われると、たしかに楽天家なのかもしれないけど」 「黒桐くん。私は異常者だって、理解してる?」  その言葉には頷くしかない。  式の二重人格(のようなもの)は本物で、それはたしかに常軌を逸している。 「うん、かなり普通じゃないね」 「でしょう。ならそれを認識すべきよ。私は普通に関われる人種じゃないんだから」 「付き合うのに普通も異常も関係ないよ」 式はピタリと止まった。  呼吸さえ忘れてしまったかのように、時間を止めてしまった。 「でも、私は貴方みたいにはなれない」  言って、式は髪をかきあげた。  ばさり、と着物の裾がゆれる。その下にある細い腕に包帯が巻かれているのが目に入 った。  右腕の肘のあたりに巻かれた包帯は真新しい。 「式、その傷・・・・」  気になって話かけるより先に、式は立ち上がった。 「織の言葉で伝わらないのなら、私からいってあげる」  式はこちらを見ず、どこか遠くを見据えたままで言った。 「このままだと、きっと私はあなたを殺すわ」 ・・・・その言葉に、どんな言葉を返せただろう。  そのあと式は昼食のゴミも片付けずに教室に戻っていった。  一人残されて、とりあえず後片付けをする。 「…まいったな、これじゃあ学人のいう通りだ」  いつかの友人との会話を思い出す。  学人の言うとおり、僕は馬鹿かもしれない。  たった今、目の前でこれ以上ないぐらいの拒絶の言葉を告げられたというのに、僕は 式をまったく嫌いになれない。  いや、むしろ気持ちがはっきりしたぐらいだ。式と一緒にいて楽しい理由なんて、一 つしかないじゃないか。 「とうにいかれちまってたんだ、俺」  …ああ、もっと早く気がつけば良かった。  殺すとまで言われ事なんか笑い飛ばせるぐらい、僕は両儀式が好きなんだっていうこ とに。                     4  二月になって初めての日曜日。  目が覚めて食卓に行くと、大輔兄さんが今まさに出掛ける、という所だった。 「あれ、居たの?」 「おお。終電を逃しちまったんで泊りにきててな、これから出勤だ。学生はいいよなぁ、きちんと休日っていう約束が守られて」  兄さんはさも眠り足りない、という顔をしている。おそらく例の通り魔の事件に進展 があって忙しいのだろう。 「そういえばうちの学校に来るとか言ってたけど、アレはどうなったの?」 「ああ、もう一度行くことになりそうだ。実はな、三日前に六人目が出たんだ。その被 害者が犯人に最後の抵抗をしたのか、爪から皮膚が検出された。女の爪ってのは長えか らな、思いっきり犯人の腕を引っ掻いたんだろう。死に際の抵抗だったのか、かなり深 くひっかいてる。検出された皮膚は三センチもあった」  兄の情報はまだどの新聞にもテレビでもやっていない最新のものだった。  けれどそんな事よりも、僕は何か違った事でくらりとした。…それはたぶん、ここ数 日の式の言動に殺すなんて不吉な単語が交じっていたからだと思う。  そうでなければどうして、僕は式と通り魔の姿を一瞬だけでも重ねたというのだろう。 「…引っ掻き傷って、つまり犯人がつけられたわけ?」 「あったりまえだ。被害者が自分の腕を引っ掻くか。検出された皮膚は肘のあたりの物 だと鑑識も出てる。血液鑑定も済んでいるから、じきチェックメイトだ」  じゃあな、と大輔兄さんは出かけていった。  膝の力が抜けて、僕は椅子に崩れ落ちる。  三日前は、夕焼けの中で織と話しをした日だ。  その翌日に見た彼女の包帯は、たしかに、腕の肘あたりに巻かれていたと思う。                     …  正午をすぎたあたりで、考えていても無駄だと気がついた。悩むぐらいなら式本人に あの怪我の事を尋ねればいい。それがなんでもない怪我だって言われれば、こんな欝と した気持ちは消えるのだから。  学校の住所録をたよりに式の家を訪ねる事にした。  彼女の自宅はとなり駅の郊外にあって、捜しあてた頃はすでに夕方になってしまった。   周囲を竹林に囲まれた両儀家の豪邸は、武家屋敷そのものの作りをしている。  高い塀にかこまれた屋敷の大きさは、歩いているだけではわからない。飛行機にのっ て空から見下ろさないと、その規模を正確には把握できないだろう。  山道めいた竹林の道を歩いて、見上げるような門につく。  江戸時代にとり残されたようなこの屋敷にも今風のインターホンが用意されていて、 少しだけホッとする。  呼び鈴を押して用件を言うと、黒いスーツ姿の男性がやってきた。三十代前半の、亡 霊みたいな暗さをもった彼は式の世話役なのだという。  秋隆というその人は、僕のような学生にも丁寧に礼儀正しく対応してくれた。  あいにく式は出かけていて、秋隆さんは上がってお待ちください、なんて言ってくれ たけれど、さすがにそれは辞退した。正直、こんな屋敷に一人で入っていく度胸もない。  日も暮れた事もあり、今日は帰ることにした。  一時間ほど歩いて駅前につくと、ぐうぜん先輩に会った。 先輩の誘いで夕飯を近く のファミリーレストランで取ることになって、話し込んでいるうちに時計は十時をさし てしまった。  先輩と違ってこちらはまだ学生の身分。そろそろ帰らなければならない。  先輩とさよならをした後、今度こそ駅の改札口でキップを買った。  時刻はじき午後十一時になろうとしている。  式はもう帰ってきているだろうか、なんて事をちらりと思った。                     … 「何してるのかな、黒桐幹也は」  夜の住宅街を歩きながら、そんな一人言をぼやく。  人気のまったくない深夜。  見慣れない街並のなか、式の家を目指して足を運ぶ自分がちょっと理解できなかった。  今から行っても彼女に会えないのはわかっているのに、なんとなく式の家に明かりが ついている所が見たかった。  凍えるような冬の夜気に肩をせばめて歩く。  ほどなくして住宅街をぬけて、一面の林に辿り着いた。  その真ん中、綺麗に舗装された一本道を進んでいく。  今夜は風がないので、竹林はとても静かだ。  街灯はなく、月明かりだけが頼りだった。  こんな所で誰かに襲われたらどうなるだろう、と冗談半分に思ってみたら、それはだ んだんと心の中に浸透してきた。  自分でも切り離したい妄想は、気持ちとは裏腹により鮮明にイメージを強めていく。  子供の頃はお化けが怖かった。竹林の影が妖怪に見えて怯えたものだ。けれど今は人 間が怖い。怖いのは誰かが竹林に潜んでいるんじゃないか、という錯覚だけだ。…いつ から僕らは正体不明の存在が、ただの見知らぬ他人なのだと識ってしまったのだろうか。  冷静になればなるほど、嫌な感覚は広がっていく。  …ほんと、嫌な予感というものはなかなか消えてくれない。  ああ、そういえばいつか式が同じような事を言っていたっけ。  あれは、たしか・・・・  それを思い出そうとした時、前方に何かが見えた。 「・・・・・」  ぴたりと足が止まった。  僕の意志ではない。だって、この時。  黒桐幹也の意識は、とうになくなってしまったから。  数メートル先に、白い人影が立っていた。  輝いてさえ見える純白の着物は、けれど赤い斑紋で汚れている。  着物の斑模様だんだんと広がっていた。彼女のすぐ前に あるモノが、赤い液体をふきあげているせいだ。  白い着物は式。  モノは、噴水ではなく人間の死体だった。 「・・・・・・・・・・」  声がでない。  けれど、いつもこの予感だけはどこかにあった。  式が、死体を前にして佇んでいるというイメージだけは。  だから僕は驚かない。騒ぎもしない。  意識が、とても綺麗に真っ白で。  死体は今まさに事切れたのだろう。生きたまま動脈を切らないと、あんなに勢いよく 血液は流れないからだ。  致死傷は首もとと、体に斜め一文字にはいった切傷。 ・・・この武家屋敷の門に相応しく、袈裟に切ったか。  式は微動だにせず死体を見つめている。  死体は死そのものだ。  ぶちまけた血の色だけで気が遠くなるのに、その内臓がごそりと腹からこぼれて、そ れはもう、まったくの別生物になりさがっている。  僕にはどろどろした何かが人間のふりをしている様にしか見えない。その擬態さえ不 出来だから、とても正視できたものではなかった。…まっとうな人間なら、できる筈が なかった。  けれど、式は微動だにせず死体を見つめている。  幽霊のような彼女の着物に、返り血がついていく。  斑紋は赤い蝶に似ていた。  蝶は勢いよく、式の顔にもふりかかる。  血に濡れた式の口元は歪んでいた。  恐れか・・・・・・悦びか。  彼女は式か・・・・・それとも織か。 「・・・・・・・・・・」  何か言おうとして、地面に崩れ落ちた。  吐いた。胃にのこった物も、胃液も、できうるのならこの記憶もと、涙がでるまで嘔 吐した。  けれど効果はない。そんな物なんか気休めにもならない。 圧倒的な血の量は、その 香りだけでも濃厚すぎて脳髄を泥酔させる。  やがて、式がこちらに気がついた。  顔だけが振り向く。                          ホホエミ  無表情の顔が笑みをうかべた。涼やかで、とても落ち着いた、母性を思わせる微笑を。  それはこの惨状には不釣り合いすぎて、逆に、                  ぞくりとした。  意識が遠くなる。彼女が近付いてくる。  最後に式の言葉を思い出した。 ・・・気をつけなさい黒桐くん。    厭な予感は、厭な現実を引き寄せるものだから・・  …やはり僕は能天気だ。  考えるのを避けていた悪い現実を、出会ってしまうこの瞬間まで考えようとはしなか ったのだから。                     5  翌日、学校を休むことになった。  殺人現場で呆然としていた所を警官に発見されて、そのまま事情聴取を受けたためで ある。  保護されてから数時間、僕は何も口にできなかったという。真っ白になってしまった 意識が通常に戻るまでざっと四時間弱。…僕の脳の現実への修復機能は、あまり優秀と はいえないようだ。  そんなこんなで警察署で取り調べをうけてから解放された頃は、もう学校に行く時間 ではなくなっていた。  死体の殺害状況からして返り血を浴びない事は不可能だ。幸いこちらの服には一滴の 血痕もなかったし、僕が大輔さんの身内という事もあって取り調べ室での聴取はなく、 比較的穏便に事は済んだと思う。  帰りは兄が車で送ってくれるというので、遠慮なく兄の車に乗り込んだ。 「で、本当に誰も見てないんだな幹也」 「しつこいな、見てないよ」  運転をする大輔兄さんを睨んで、僕は車の助手席に深く背を預けた。 「そうか。くそ、おまえが見てれば話は早いんだが…考えてみれば犯人が目撃者を見逃 す筈がないな。肉親(オマエ)に 死なれたら兄貴に申し訳がたたん。俺にとってはおまえが 何も見ていなくて助かった」 「刑事失格だね、大輔さんは」  平然と兄の言葉に相づちをうつ自分がイヤになった。  嘘つき、と心の中で自分を罵倒する。  …自分でも、こんなに堂々と居直って嘘を言ってしまうなんて信じられない。しかも 事は刑事事件だ。見た事は正直に話さなければ、事態は悪いほうへと転がってしまうの だ。  …だというのに、僕は式があの現場にいたという事を一言も口にしなかった。 「ま、なんにせよおまえが無事でよかったよ。それで初めて仏さんを見た感想はどうだ った?」  意地が悪いこの人は、この状況でもそんな事を聞いてくる。 「最悪。二度と見たくない」 「今回のは特殊なやつだ。通常はもちっとマシだから安心しろ」  何に安心しろっていうんだろうか、兄さんは。 「しかし幹也が両儀の娘と知り合いだったとはな。世の中は狭いねえ」  兄にとっては意外で楽しいだろうその事実は、逆に僕を暗くさせる。  …両儀家の屋敷の前でおきた殺人事件は今までの通り魔殺人と同一犯とされたものの、捜査はぱったりと止まっていた。警察も一通りの現場検証を済ますと両儀家の敷地には 立ち入らない。兄さん曰く、両儀家からの圧力であるらしい。  今回の事件は二月三日(日曜日)の午後十一時半から十二時にかけて犯人による殺害 が行なわれ、唯一の目撃者は黒桐幹也だけと記録された。  その僕も、事が終わった後の現場を目撃し、死体を見たショックで意識が混濁として いる所を巡回中の警官に保護された、という事になっている。  両儀家のほうも、僕も、式については何も語っていない。 「けど兄さん。両儀家の人たちは調べたんでしょう?」  探りをいれてみると、いや、と大輔さんは首をふった。 「娘の式のほうはおまえの高校にかよってるしな、ぜひ話を聞いてみたかったが断られ た。屋敷内ならともかく、外で起こった事など知らん、とよ。  だが見た感じ、ありゃあ白だな。事件には関係ない」 「え?」  思わず鸚鵡返しをする。  僕はこれでも大輔兄さんを信頼している。署内でもこの人が退職にならないのはその 有能さゆえだという評判だ。だからきっと、兄さんは式を怪しんでいると思ったのだが。 「その根拠はあるの?」 「んー、まあな。おまえ、あんな綺麗な子が人を殺すと思うか? 思わないだろ? 俺 だって思わないぞ。こんなのは男として当然の結論だ」  …だから、どうしてこの人は刑事になんてなったんだろうか。いや、それ以前に僕以 上の能天気ぶりにため息がでる。 「なるほど。兄さんは生涯独身だよ」 「おまえな、もう一度ぶちこむぞ」  証拠不十分で釈放になるって。  …けど、兄さんの意見には僕も賛成だ。  兄さんのような直感はないにしても、一連の事件は式じゃないというのが黒桐幹也の 意見である。  たとえ彼女本人がそれを認めても、僕はそうではないと信じている。  だからその為に、一つやらなくちゃいけない事が出来てしまった。                     …  事件は解決に近付いた。  こうして翌日から三年後のあの日まで、街を闊歩する殺人鬼の姿は完全に途絶える事 となる。  この時の僕にとって、この出来事はまったくの他人事でしかなかった。  けれどこれは、僕と式にとって最初で最後の、自分たちに関する事件でもあったのだ。                                殺人考察(前)・了