/4  屋敷の前で殺人事件が起きた。  私はその日、夜の散歩に出たあとの記憶が曖昧だった。  けれど不鮮明な記憶を繋ぎあわせれば、何をやったかは明白になる。  織もそうだが、私も血の匂いには弱い質だ。見ているだけで意識が法、とする。  今回の死体の流血はとくに綺麗だった。  屋敷に通じる石畳の道。石と石の間の溝は迷路のようで、その迷路を走っていく朱色 の線は今までにない雅びさがあったから。  けれどそれが災いした。  気がつけば誰かが背後で嘔吐していて、振り返ってみればそれは黒桐幹也だった。  どうして彼があの場にいたか、私にはわからない。あの時だって疑問に思わなかった。  でも、と思う。  その後私は屋敷に戻ったが、事件の発見はそれよりもっと後になったようだ。私があ の場にいたという話もない。  とすると、あの時に見た彼は夢だったのだろう。  あの真正直な同級生が、殺人鬼を庇いだてる道理はないのだから。  けど・・・・よりにもよって家の前とは。 「織、あなたなの…?」  問いかけてみたが、答えは返ってこなかった。  私と織はズレている。その感覚は日に日に強くなっていた。織に体を預けても、決定 権は自分のものだ。けれどその時の記憶が曖昧なのはどういう事なのだろう。  …もしかして。  自分だけ気付いていないだけで、私も両儀の血筋たちのように狂ってしまっているの だろうか。 "自覚がある異常者なんて偽物だよ"と織ならば言うだろう。異常者にとってみれば周 りのほうがおかしいのだから、自分になんの疑問ももたない。  少なくとも私はそうだった。  という事は、私は十六年かけてようやく周りと自分の違いを思い知らされたというこ とか。  でも、それは誰によってなのだろう。 「お嬢様、よろしいでしょうか」  ドアをノックして、秋隆がそう呼びかけてきた。 「なにか?」  入ってください、という意味合いの言葉に秋隆は従った。  眠りにつく直前の時間帯のため、彼はドアから中に入ってこようとはしない。 「屋敷の周りに張り込んでいる者がいるようです」 「警察は父が追い払ったと聞きました」  はい、と秋隆は頷く。 「警察の監視は昨夜から撤退させました。今夜のは別件ではないかと」 「好きにしなさい。私には関係のない事でしょう」 「ですが、張り込んでいるのはお嬢様のご学友のようなのです」  言われて、私はベッドから立ち上がった。  屋敷の門が見渡せる窓に近付くと、カーテンごしに外の風景を見る。  門の周囲の竹林の中、あと僅かだけでもうまく身を隠してほしい、と思うほど目立っ た人影がある。  …頭に、きた。 「ご指示してくださればお帰り願いますが」 「あんなの、放っておいてかまいません」  私はベッドまで小走りに戻ると、そのまま横になった。  秋隆はお休みなさいませ、と残してドアを閉める。  部屋の電気を消して瞼を閉じても、まったく寝付けない。  やる事もないので、仕方なく私はもう一度外の様子を確かめた。  茶色のダッフルコートの衿をたてて、幹也は寒そうに身を震わせている。彼は白い息 を吐きながら門を眺めているようだった。  …その足元に魔法ビンとコーヒーカップを持参しているあたり、大人物なのかもしれ ない。  あの時の幹也が夢だというのは却下だ。  彼はあの時たしかに存在したから、こうして私を見張っている。その思惑は掴めない が、おそらくは殺人者の正体を確かめるためだろう。  …とにかく。  自分でも不思議に思うぐらい腹がたって、知らず私は爪を噛んだ。  そんな事があった翌日も、幹也はいつも通りだった。 「式、お昼一緒に食べない?」  なんて誘いをかけ、屋上へと行ってしまう。  食事の誘いだけは毎回うけている為か、私は餌付されているような気がしないでもな い。  私は彼とは関わらないと決めたのだが、幹也があの夜の事をどう考えているは興味が ある。  おそらく今日あたり問い詰めてくるだろう、と予測して私は屋上についていった。  けれど、幹也は相変わらずだった。 「式の家って無意味に大きくないか? 訪ねにいった先で家令さんに相手をされたなん て、自慢話になっちゃうぞ」  家令なんて言葉を知っているあたり、幹也にそんな事をいう資格はない。 「秋隆は父の秘書です。それに今は家令じゃなく管理人っていうのよ、黒桐くん」 「なんだ、結局そういう人がいるんじゃないか」  …家の話が出たのはこれだけだ。  彼の事だから自分の張り込みが気付かれている事は知らないだろうけれど、それにし たっておかしすぎる。  あの時、返り血を浴びていた私を見た筈なのに、どうして幹也は今までどおりに笑い かけられるのだろう。  私は自分からきりだした。 「黒桐くん。二月三日の夜、あなたは・・・・」 「その話はいいよ」  私の詰問を、彼はそれだけの言葉であっさりと受け流してしまった。 「なにがいいっていうの、コクトー」  …信じられない。私は、無意識に織の言葉を使っていた。  明らかに式としての私にコクトーと発音されて、幹也は少し戸惑っている。 「はっきりして。どうして警察に黙っているのか」 「・・・・だって、僕は見ていない」  嘘だ。そんな筈はない。  だってあの時、織は嘔吐している彼に近寄って・・・ 「式はただあそこにいただけだろ。少なくとも、僕はそれしか見ていないんだ。だから 信じる事にしたんだよ」  嘘だ。ならどうして屋敷を見張る。 ・・・近寄って・・・ 「ま、白状すると本当は辛いんだ。だから今は努力してる。 自分自身に自信がもてるようになったら、式の話を聞ける状況になれるだろう。だから、今はその話はよそう」  どこか拗ねるようなその表情に、私は逃げ出したくなった。 ・・・織は、間違いなく黒桐幹也を殺そうとした・・・  私はそんな事を望んでいなかったのに。  幹也は信じるといった。  私も、そんな事を望んでいなかったと信じられれば、こんな未体験の苦しみを味わう 事はなかっただろうに。  その日以来、私は幹也を完全に無視する事にした。  二日ほどたってあちらも私に話かけてくる事はなくなったが、深夜の張り込みは続い ていた。  冬の寒空の下、夜中の三時ごろまで幹也は竹林の中にいる。おかげで私は夜の散歩も できないでいた。  張り込みはすでに二週間ほどになる。  それほど殺人鬼の正体を暴きたいのか、と私は窓から彼の様子を盗み見た。  …ものすごく我慢強い。  そろそろ午前三時になろうとしているが、幹也はずぅっと門を眺めていた。  そこに鬼気迫るものはなく、逆に・・・・去りぎわに笑いさえした。 「・・・・・・」苛立ちに、舌を咬んだ。  ああ、やっと分かった。  アレは殺人鬼の正体を暴こうとしているんじゃない。  あいつにとって、私を信じるのなんていうのは当然の事なのだ。  だから疑ってなどいない。彼は初めから私が夜出歩かないと確信してあそこにいる。  私の潔白を確かにするためにあそこにいる。  だから何事もなく夜が明けて、幸せそうに笑うのだ。  本当の殺人者を、本当に無実なのだと信じきって。 「・・・・なんて、幸福な男」  呟いて、思う。  幹也といると、なんだか落ち着く。  幹也といると、彼と一緒なのだと錯覚する。  幹也といると、そちら側に行けるのだと幻想してしまう。  けれど、でも、ぜったいに。  その明るい世界は自分がいてはいけない世界だ。  自分がいられない世界、自分の居場所がない世界だ。    アイツ ・・・幹也は当たり前のような笑顔で私を引きずり込む。  そう思う私は、そう思わせる幹也に苛立ちを覚えていたんだ。  織という殺人鬼を飼う私、  異常者である私を異常者だと認識させてしまうあの少年・・・・・。 「私は独りで足りている。  なのにあなたは私の邪魔をするのね、コクトー」  式は狂いたくない。  織は壊れたくない。      ユメ  このまま、普通に生きるという幻想など持たずに生きていければ良かったのに・・・・。  三月になって、外の寒さはいくらか和らいできた。  私は何週間かぶりに放課後の教室で外を眺める。  窓から見下ろす俯瞰の視界は、私のような者にはむしろ安堵を覚えさせる。届かない 景色は、届かないからこそ私に希望を抱かせないから。  夕日で真っ赤に染まった教室に、いつものように幹也がやってきた。  こうして二人きりで教室で話をするのが織は好きだった。  …私も、決して嫌いではなかった。 「式から誘いがあるとは思わなかった。無視するのは止めてくれたの?」 「それができなくなったから呼んだの」  幹也は眉をしかめる。  私は織と混ざりあう感覚に襲われながら続けた。 「あなたは私が人殺しじゃないって言ったけど」  夕日が赤くて、相手の顔がみえない。 「残念ね。私、人殺しよ。あなただって現場を見たくせに。なんで私を見逃すの?」  幹也は憮然とした顔をする。 「見逃すも何もないだろ。式はそんな事してないんだから」 「私がそうだと言っているのに?」  ああ、と頷く幹也。 「自分の言う事は話し半分に聞けって言ったのは式のほうだろ。それに君にあんな事は できない。絶対だ」  何も知らないでそういいきる幹也に、私は怒りを覚えた。 「・・・絶対ってなに。  おまえに私の何が理解できるんだ。  おまえは私の何を信じられるんだ」  怒りは言葉になって叩きつけられた。  幹也は困って、寂しげな微笑みをうかべて言った。 「根拠はない。けど、僕は式を信じつづける。  君が好きだから、信じ続けていたいんだ」                     …  それがとどめになった。  純粋な力、純潔な言葉は、そうであるがゆえに何もかも消してしまう。  彼にとってなんでもないこの言葉は、式という私にとって小さな幸福であり、防ぎよ うのない破壊だった。  私はこのしあわせなひとを通して、叶わない時間を見せ付けられただけなのだ。 ・・・・誰かと暮らせる世界は楽な世界なんだろう。     …でも私はそれを知らない。     …きっと私はそれを知らない。  誰かと関わりをもてば、織がその人を殺してしまう。  織の存在理由は否定だから。そして肯定である私は、否定なくしては存在できない。  今まで何かに惹かれた事がなかったから、私はこの矛盾から遠ざかっていた。  知ってしまった今は、願えば願うほどそれが絶望的な願いだとわかってしまう。  それはとても苦しくて、憎い。  初めて、心の底からこいつが憎いと思った。 ・・・幹也は当たり前のように笑う。    私は、そこにはいられないというのに。  そんな存在には耐えられない。  私は確信した。  幹也は、私を破滅させる・・・・。                     … 「・・・・おまえは、罵迦だ」  心底からの本気で告げた。 「うん、よく言われる」  夕日だけが、赤い。  私は教室から出ていく。去りぎわ、振り向かずに問いただした。 「ねえ、今日も私を見張りにくる?」 「え…?」  驚く声。やっぱり私に張り込みがばれていると気付いていなかったようだ。  幹也は慌てて取り繕ろおうとするけれど、私はそれを制止した。 「答えて」 「なんの事かわからないけど、その、気が向いたら行くよ」  そう、と答えて私は教室を後にした。  茜の空には灰色の傘がある。  にわかに騒ぎだした雲行きから、今夜は雨になるのだろうと私は思った。                    /5  その夜。  夜になって空を覆った雨雲は、ほどなくして雨を降らせ始めた。  雨音が夜の暗さを騒々しさに中和させる。  雨の強さは土砂降りというほどでもなかったが、小雨というほどでもなかった。  三月初等といえど、夜の雨は冷たく痛い。  笹の葉と一緒に雨に濡れながら、黒桐幹也はぼんやりと両儀の屋敷を眺めていた。  傘をさした手が赤くかじかんでいる。  ふう、と長く息を吐いた。  幹也とて、いつまでもこんな変質者まがいの事をやっている気はない。この間に警察 が殺人鬼を捕まえてくれれば恩の字だし、あと一週間なにもなければ止めようと思って もいた。  …流石に雨の中の張り込みは疲れる。  冬の寒さと水滴の二重苦は、慣れ始めた幹也にとってもつらいものだった。 「はあ…」  ため息が出る。  けれど気が重いのは雨の事ではなく、今日の式の素振りだった。  自分の何を信じられる、という彼女に何を伝えられたのだろうか。  あの時の式は弱々しかった。泣いているのかとさえ思えたほどに。  雨はやまない。  石畳を黒く光らせる水溜まりが、小さな小さな波紋を飽きもせず繰り返していた。  ぱしゃり、と一際大きい水音がした。  幹也がそちらに視線を向けると、そこには赤い単衣が立っていた。  単衣を着た少女は雨に濡れている。  傘もささず、降りしきる雨にさらされた少女は海の底からあがってきたように、水に 濡れていた。  短い黒髪が頬に張りついている。髪に隠れた瞳はどこか虚ろだった。 「・・・式」  驚いて幹也がかけよる。  突然あらわれた少女は、どれほどの時間雨に打たれていたのだろう。  赤い着物は肌に張りつき、その体は氷より冷たくなっていた。  幹也は傘を差し出すと、バックからバスタオルを取り出した。 「ほら、体を拭いて。なにやってんだ、自分の家がそこにあるっていうのに」  叱りつけながら差し出される腕。  その無防備さを、彼女は嗤った。 「・・・・・・え?」  気がつくより千倍早い。  差し出した腕に熱い感覚がして、幹也は咄嗟にとびのいた。  ぼたりと何か温かいものが腕を伝う。  切られた?  腕を?  どうして?  動かない?  鋭利すぎる痛みゆえに、それが普段感じる痛みと同じ物と理解できない。  あまりの痛みに、痛覚さえ麻痺している。  幹也に考える余裕はなかった。  式と思っていた赤い単衣の少女が動く。  以前この場所で惨劇を見た為か、幹也の意識はまだ混乱していなかった。  あくまで冷静にとびのいて、ここから逃げ出した。 ・・・・・否。逃げられる筈がなかった。  幹也がとびのいた瞬間、彼女は彼の懐に走りよる。  その速さはヒトとケモノの違いだった。  ザン、という音を幹也は自分の足から聞いた。  雨の中に赤いものがまじる。  それは石だたみに流れる己の血だとわかって・・・幹也は仰向けに倒れこんだ。 「あ・・・・」  背中を石畳に打ち付けて喘いだ。  倒れこむ幹也の上に、赤い単衣の少女がのしかかる。  そこに迷いはない。  少女は手にしたナイフを幹也の喉元に突き付けた。  幹也はその光景を見上げる。  そこに在るのは闇と・・・・彼女だ。  黒瞳に感情はない。  ただ、本気だった。  ナイフの切っ先が幹也の喉に触れる。  少女は雨に濡れているせいか、泣いているように見えた。  表情はない。  仮面めいた泣き顔は恐ろしく、同時に憐れだった。 「コクトー、何か言ってよ」  式は言った。  遺言を聞いてあげる、と。  幹也は震えながら、式から目を離さないで言う。 「僕は…死に…たくない……」  それは式にあてた言葉かもあやしい。幹也は式にではなく、今襲いかかってくる死そのものに言ったのだ。  式は微笑う。         コロ 「私は、おまえを犯したい」  それは、とても優しい笑いだった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・                   空の境界/序                     0  1998年七月。  燈子さんの事務所に就職して、僕は初めての仕事を無事終わらせた。  といっても、やってる事は燈子さんの秘書めいた事で、契約上の手続きを弁護士さん と相談して処理しただけだ。  一人前扱いされていない不満は残るけれど、大学を途中で辞めてしまった自分の扱い は半人前なのだという事は自分が一番よくわかっていた。 「幹也クン、今日は病院に行く日じゃなかったかしら」 「ええ、仕事があがってから行きます」 「早くきりあげてもいいよ。どうせ仕事なんてもうないんだから」  眼鏡をかけた燈子さんはとても親切なひとに変貌する。 今日はそのラッキーデイで、本人も一仕事終えたばかりなのだ、と愛車のハンドルを磨 いていた。 「それじゃあちょっと行ってきます。二時間ほどで戻りますから」 「おみやげよろしくねー」  ひらひらと手をふる橙子さんを後にして、僕は事務所を後にした。  週に一度、土曜の午後に僕は彼女のお見舞いに行く。  あの夜以来、話す事も出来なくなった両儀式のもとに。  彼女がどんな苦しみ抱いて、どんな事を思っていたかは知らない。  どうして僕を殺そうとしたのかも、わからない。  けれど式が最後に見せた儚げな笑顔だけで十分だった。  学人が言うとおり、とうの昔から黒桐幹也は両儀式にいかれていたのだ。一度殺され かけたぐらいじゃ、とても正気になんか戻ってやらない。  病室で眠り続ける式は、あの時のままだ。  最後の放課後、夕焼けの中で佇んでいた式を思い出す。  燃えるような黄昏時に、自分の何を信じられるのかと式は問うた。  あの時の答えを繰り返す。 ・・・根拠はない。けど、僕は式を信じつづける。    君が好きだから、信じ続けていたいんだ・・・・・  …なんて未熟な答えだったのか。  根拠はないと言ったけれど、本当はあったんだ。  彼女は誰も殺さない。それだけは断言できる。  だって式は殺人の痛みをしっている。被害者でもあり加害者でもある君は・・・・・  誰より、それが哀しいことを識っている。  だから信じた。  傷つかない式と、傷しかない織を。 ・・・いつも怪我をしそうで危うかった、    ただの一度も本心を語れなかった哀しい君を。                     0  用意された駒は三つ。  死に依存して浮遊する二重身体者。  死に接触して快楽する存在不適合者。  死に逃避して自我する起源覚醒者。  互いに絡み合いながら相克する螺旋で待つ。